歳を重ねると、新しい友人知人を得ることよりも、失う友人や知人の数の方がどうしても多くなってしまいます。諸行無常は自然の摂理、仕方がないと諦めてはいるものの、やはり親しかった人の訃報に接すると言い知れぬ寂しさに襲われるものです。
特に同級生や労苦を共にした友人との別れはショックも大きく、寂しさも一入(ひとしお)。やがて、己にも必ずやってくる天国か地獄かのお迎えのことが、脳裏をよぎることがあります。
「次は俺か? 縁起でもない、まだまだそっちには行かんぞ!」と頭を振って、暗い気持ちを振り払おうとします。しかし、年齢を増すごとに死への恐怖は徐々に大きくなります。そんな寂しい気持ちを癒やし、理解し合えるのはやはり共に生きた同世代の友人であるのですが、その友とも一人また一人と別れなければならない時のことを考えると心が塞ぎます。
そんな不安な気持ち、心が塞いだ時に、是非とも思い出していただきたいのが、今回ご紹介する高杉晋作の名言です。
世の中「絶対にこうなる!」と断言できることは、そんなに多くはないものです。十中八九間違いないと思っていたことが、予想に反した結果になることはよくあること。
その数少ない「絶対」と断言できるのが「死」です。そうでありながらも、不思議なことに普段「死」を意識することなく「永遠に生きられる」かのように思って日々過ごしています。身近に「死」が起こると、その時だけ(?)しばらくは意識しますが、それでもまだ、「死」を自分のこととは思わない、思いたくないところがあります。
それは「その日」が定まっていないが故のことでしょう。それでは、不治の病や命に関わる危機に直面した時、どのような気持ちになるのでしょうか?
残念ながら、答えは「その時になってみなければわからない」。お遊びで「ねぇ、もし今日が、最後の日と言われたら何をする?」なんて質問された時と訳が違うことだけは確かです。
ただ思う(願う)ことは、「心穏やかに悟りの境地で“その日”とやらを迎えたい!」ということ。もし、できることなら「その日」が来るのを楽しみにするくらいの気概を持ちたいものです。そうした意味において、今回ご紹介します高杉晋作の名言は大いに学びとなると思いますが、いかがでしょうか?
※ことばの解釈は、あくまでも編集部における独自の解釈です。
高杉晋作の人生
高杉晋作は幕末期の長州藩における討幕派の中心人物であり、奇兵隊の創設者です。19歳の時、吉田松陰の私塾「松下村塾(しょうかそんじゅく)」に入り、吉田松陰の教育を受けます。当時、久坂玄瑞(くさかげんずい)との双璧をうたわれ、松陰は久坂の「才」に対し、高杉の「識」を高く評価しました。松陰刑死後、高杉は遺骸の引き取りに奔走します。
海外視察後、倒幕の実現に力を入れた高杉は、藩の正規兵ではなく志願者を募って“奇兵隊”を結成。西洋式の軍隊を整え、倒幕戦争の力としました。しかし、馬関海陸軍参謀として活躍している最中、肺結核を患い辞任……。当時、肺結核は労咳(ろうがい)と呼ばれ、不治の病とされていました。
今回取り上げた名言は、先の短いことを悟った高杉が残した言葉です。満27年8か月の波乱の生涯を生き抜いた高杉の人生観が垣間見えます。
高杉晋作肖像画/もぱ
文・構成・アニメーション/貝阿彌俊彦・末原美裕(京都メディアライン)
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