はじめに-奥州藤原氏
平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて、現在の東北地方一帯を治めた、奥州藤原氏。歴史の上では、頼朝に追われる義経をかくまった存在として有名です。京都の貴族たちとうまく渡り合いながら独自の栄華を誇った奥州藤原氏とは、どのような一族だったのでしょうか。今回は、藤原秀衡とその息子・泰衡と国衡を紹介していきます。
各人物の紹介
ここからは、藤原秀衡、泰衡、国衡を取り上げ、紹介していきます。
藤原秀衡
藤原秀衡(ひでひら)は、平安後期の陸奥(むつ)の豪族で、奥州藤原氏3代の栄華の頂点をつくった人物です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、清盛や頼朝がその存在を恐れる奥州の覇者(演:田中 泯)として描かれます。平家滅亡後は、源義経をかくまって頼朝に対抗しました。
藤原基衡(もとひら)の子である秀衡は、陸奥守(むつのかみ)に任ぜられて、平泉政権を北方の独立王国の地位に高めるとともに、平氏、源氏と並ぶ第三の政治勢力として評価されるまで権威あるものにした人物です。
嘉応2年(1170)、陸奥現地の者はこの職に任じない規定があった「鎮守府将軍」に秀衡が任ぜられます。また、源平合戦のさなかの養和元年(1181)に陸奥守に任命されますが、これは、前例のない東北政治の地元委譲として論議を呼びました。平家は、鎌倉の源頼朝を牽制し、頼朝を征討できる唯一の東国勢力として秀衡を評価し、この地位につけて鎌倉を謀ろうとしたと考えられています。
秀衡は一方で京都と手を結ぶとともに、他方では鎌倉とも友好協定を結んで、平泉のバランスとしての地位を確立しました。そうして奥州藤原氏の3代目として、奥羽一円におよぶ支配を確立したのです。
源平争乱の中で、平家および朝廷から関東の源頼朝の背後をつくことを期待されましたが、平泉を動かなかったとされます。ただ、事態を静観してばかりいたわけではなく、頼朝追討の請文を提出したり、平家追討中の源義仲に対し、協力して東西から頼朝を攻めようと進言したりしたといわれています。
また、頼朝の呼びかけに応じて表面的にはその勢力下に入りましたが、なお独立性を保っていました。晩年、頼朝に追われている義経をかくまったことでも有名です。死にのぞんで、国衡・泰衡の2子および源義経に互いに異心のない旨の起請文(きしょうもん)を書かせ、2子に対しては義経を主君として仕えるよう遺言した、と伝えられています。
しかし、文治3年(1187)10月に秀衡がなくなったその1年半後、泰衡は義経を討ち、頼朝により奥州藤原氏は滅亡したのでした。
また、秀衡は京都文化を移植して、宇治平等院を模した無量光院(むりょうこういん)をつくり、奥州藤原氏三代の栄華の頂点を示しました。彼の遺骸は中尊寺金色堂に収められています。
藤原泰衡
藤原泰衡(やすひら)は、平安末期の陸奥の豪族・藤原秀衡の次男です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、奥州藤原氏第4代当主(演:山本浩司)として描かれます。
父・秀衡の晩年から平泉と鎌倉間は義経の取り扱いをめぐり冷戦状態に入っていました。文治3年(1187)、父・秀衡死去のあとを受けて、泰衡が陸奥出羽押領使の地位に就きました。秀衡の遺言には、子である泰衡と国衡が、源義経を“主君”として仕え、その結束をもって、源頼朝の攻撃に備えよ、とあったと伝えられています。その遺言を守るべく、源義経をかくまった泰衡でしたが、頼朝方の圧迫に耐えかね、文治5年(1189)4月30日、泰衡は義経の衣川館に攻めて彼を殺しました。
しかし、頼朝はこれを許さず、同5年8月21日、大軍をもって攻めたため、平泉は陥落。館に火を放って北方に逃れた泰衡は、翌9月3日、肥内郡贄柵(にえのさく)(=現在の秋田県大館市)で殺されました。これにより、奥州藤原氏は滅びることとなったのです。
泰衡を殺害したのは家臣・河田次郎(かわだのじろう)とされ、泰衡の首は紫波郡陣岡(=現在の岩手県紫波郡紫波町陣ヶ岡)の頼朝の本営に運ばれると、眉間に八寸の鉄釘を打ちつけて柱に懸けられたとされます。首を持参した河田次郎は恩賞を与えられず、主人殺しの罪により斬刑に処せられました。
泰衡の首は間もなく返されて平泉に戻り、中尊寺金色堂内に納められ、父・秀衡の金棺のかたわらで眠りにつきました。享年は35歳または25歳といわれます。
藤原国衡
藤原国衡(くにひら)は、平安末期の陸奥の豪族・藤原氏の武将です。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、藤原秀衡の長男(演:平山祐介)として描かれます。
国衡は第4代当主・泰衡の異母兄にあたります。文治5年(1189)源頼朝の奥州征伐の折、平泉方は陸奥国の阿津賀志(あつかし)山(=現在の福島県伊達郡)を最前線防衛拠点としました。その際、守将として防戦を繰り広げたのが国衡です。
合戦は8月8日に始まり、10日に大勢が決し、国衡は敗れます。その後出羽へ逃れんとしましたが、和田義盛(よしもり)の矢に傷つき、乗馬が深田にはまったところを畠山重忠の門客・大串次郎(おおくしじろう)に討たれたとされています。
没年齢は正確には不明ですが、すぐ下の弟(異母弟)である泰衡の享年が35歳もしくは25歳とされているため、国衡はそれ以上の年齢に達していたとされます。
また、『吾妻鏡』の記述によると、国衡の乗っていた馬は奥州第一の駿馬で「高楯黒(たかだてぐろ)」と号され、国衡が毎日必ず三度平泉の高山に駆け上っても、汗もかかない馬であったと伝えられています。
まとめ
朝廷には服従せず、独立国家の様相を呈していた奥州藤原氏。しかし、秀衡の死後わずか2年で終わりを告げてしまいます。その悲痛な最期も含めて、私たちの心に残る存在だといえるのではないでしょうか。
文/豊田莉子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
アニメーション/鈴木菜々絵(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)