ライターI(以下I):義経(演・菅田将暉)が奥州平泉に落ち延びました。例年GWに開かれる奥州藤原まつりも今年は3年ぶりの開催で大盛況だったそうです。
編集者A(以下A):義経の平泉帰還の場面に触れると、藤原秀衡(演・田中泯)があと1年長生きしていたら、義経の運命も変わっていたのではないかといつも思うのですよね。
I:そういうのありますよね。豊臣秀吉が亡くなったあと、前田利家がもう少し長生きしていたらというのと同じですね。しかし、今週は山伏姿の義経の汚れ具合が目を引きました。
A:義経ファン、あるいは菅田将暉さんのファンの方々の胸に迫りくる場面だったのではないでしょうか。そして大河ドラマのオールドファンにとっても、あの義経の風貌から、「ああ、安宅の関などで苦労して来たんだな」と想像力を膨らませてくれる演出だと感じました。
I:「安宅の関」を描いていないのに、その場面が目に浮かぶ。「ないのにある」という哲学的な演出でした(笑)。
A:ここで整理しましょう。藤原秀衡が、息子たちに義経を擁して一致団結することを求めたこと、庶兄国衡(演・平山祐介)と嫡男泰衡(演・山本浩司)との関係を強化するために、秀衡の妻を国衡に再嫁させるという奇策まで駆使したことは、前週に「未曽有、未曽有」と連発していた九条兼実(演・田中直樹)の日記『玉葉』に書かれています。さらに頼衡(演・川並淳一)が殺害されましたが、この状況下で命を落としたのは事実。虚実ないまぜにしたスリリングな展開でしたが、この緊迫した状況の中で前週も指摘した「鎌倉は義経を利用する方向に舵を切った」ということがより鮮明になりました。
I:国衡を父とするというのは苦し紛れの策にも見えますが、秀衡からすれば大真面目。それだけ自ら亡き後の平泉の動向が気がかりだったのでしょう。ただ、兄弟が6人もいては意見の相違が生じるのも仕方ないですね。
A:平泉の中尊寺や周辺の毛越寺跡や関連史跡には何度も訪れた事がありますが、金色堂の秀麗で豪華なさまにいつも圧倒されます。「この輝きを義経も目にした」と思うと、神々しさすら感じます。須弥壇の阿弥陀如来を中心とした御仏は義経とも対面したのであろう仏さま。義経は御仏に何を語ったのでしょうか。往時に思いを馳せながらお参りすれば、平泉での義経の思いに触れることができるかもしれません。
I:藤原氏が企図していたのは「黄金浄土」ともいわれますが、関東や朝廷から独立した存在であり続けたかったんだろうなと思います。それだけに、泰衡らが鎌倉側の「挑発に屈した」ことが悔やまれます。1993年の大河ドラマ『炎立つ』では、前九年の役の際に、源頼義の陣が襲撃を受ける「阿久利川事件」が描かれました。安倍頼時が源頼義を攻めたというのですが、陰謀説が根強いです。
A:最近よく聞く言葉でいうと『偽旗作戦』疑惑ですね。これで陸奥守の任期切れ直前だった源頼義は京に戻ることなく、前九年の役が長期化した原因といわれています。安倍頼時側には、奥州藤原氏の祖にあたる藤原経清がいて、頼義らによって凄惨な最期を遂げます。かつて「源氏の陰謀」に煮え湯を飲まされた先祖がいたにもかかわらず、またもや源氏の陰謀にやられるとは……。
I:劇中でも〈我らが攻め入る大義名分を作るのだ。勝手に九郎を討ったことを理由に平泉を滅ぼす〉という頼朝(演・大泉洋)=源氏の陰謀体質が描かれましたが、阿久利川事件から義経の時代は約130年経過しています。源氏への恨みが薄れてしまったのでしょう。
A:中尊寺には、清衡、基衡、秀衡、泰衡の藤原四代のご遺体が安置されています。四代泰衡は、眉間に八寸の釘が刺された跡が認められるそうです。平泉側の視点に立つと、「なぜ、御館の遺訓を守らなかったのか」と悔やまれます。
I:ほんとうにそうですね。
A:ちなみに、中尊寺には杉並木が続く参道がありますが、この杉並木は仙台藩伊達家が植林したもの。中尊寺は、時代の流れの中で途切れることなく崇敬を集めていたということです。
I:岩手県なので盛岡藩領かと思ったのですが、江戸期は仙台藩領だったんですね。
鶴岡八幡宮での静御前の舞
I:さて、静御前(演・石橋静河)の鶴岡八幡宮での舞のシーンは胸に迫るものがありました。〈しづやしづ しずのおだまきくりかえし むかしをいまに なすよしもがな〉。「あの頃に戻りたい」と謳うのですね。非力な女性の舞のシーンですら、義経を扇動するための仕掛けにするとは。
A:平家を破った英雄と当代切っての白拍子のカップルの行く末は悲しい結末でした。そうした中で、政子(演・小池栄子)が〈女の覚悟です〉と静の心情を自身と重ねて吐露しました。
I:〈女の覚悟〉……。我が子を犠牲にしてまで義経に選ばれた女であることのプライドを守ったのか、はたまた義経の遺児が将来の禍根、新たなる悲劇になることを覚悟をもって未然に防いだのか。いずれにしても大変な覚悟だったのですね。この先、政子自身も幾度も「覚悟」を試される場面に遭遇します。
A:そう思うと、切ないですね。
菅田将暉の義経は死んでいない!
A:さて、義経の最期の場面ですが、私は「義経は討たれていない」と強く感じました。義時と別れる際の表情は笑っていた感じですし、劇中で〈八幡大菩薩の化身や鬼神〉と称され、多くの坂東武士らが、戦いたくないと恐れた義経がおいそれと討たれるわけがありません。
I:え、そんなことをいうなんて珍しいですね。でも、頼朝のもとに首桶が届けられましたけど……。
A:義経の首と称するものは、義経が討たれたとされる日から40日以上経ってから鎌倉に届けられています。酒に浸されていたとはいえ、初夏のころです。もはや人物を判別するのは難しかったのではないでしょうか。
I:頼朝の慟哭は、感動的な場面でした。最後の最後に「鎌倉殿頼朝」ではなく「兄頼朝」の素直な心情を吐露してくれたと思いました。それでも、義経は北に向かったというのですね。それは、一視聴者としての独自解釈ということなんですよね?
A:はい。頼朝の慟哭は真実だったと思いたいです。ただ、そのために「この首は義経ではない」と気づかなかったのだと勝手に解釈しています。きっと菅田将暉の義経は、北へ向かって馬を走らせたのですよ。奔放で闊達な「菅田義経」が死ぬわけがない。そもそも義経が討たれるシーンがなかったじゃないですか。
I:確かに現在の岩手県や青森県には平泉から脱出した義経が立ち寄ったという北行伝説が山ほどあります。青森県の三厩には義経寺(ぎけいじ)があり、義経一行は津軽海峡を渡ったと言われます。
A:義経寺から津軽海峡を望むと、そうした伝承が絵空事ではないと感じてしまうから不思議です。津軽十三湊にも義経北行伝説があるそうです。その後の十三湊の繁栄を考えると、この件だけは、今週だけは、軸足を「歴史ロマン」の方におかせてもらってもいいのかなと感じています。
I:菅田将暉さんの義経が北方で生きている。確かに想像力が膨らみますし、わくわくします。かつて、義経=成吉思汗(ジンギスカン)説が一世風靡したこともありますからね。
A:高木彬光さんの『成吉思汗の秘密』は中一のころドはまりしました(笑)。でも今回は、そこまではいいません。菅田将暉さんの義経に魅せられた人々が、それぞれの胸の中で、「その後の義経の姿」に思いをめぐらせてほしいなって感じています。義経は私たちのもとに帰ってきたんです。
I:津軽海峡を意気揚々と渡る菅田さんの義経、見てみたい気がします。
●編集者A:月刊『サライ』元編集者(現・書籍編集)。歴史作家・安部龍太郎氏の『半島をゆく』を足掛け8年担当。初めて通しで見た大河ドラマ『草燃える』(1979年)で高じた鎌倉武士好きを「こじらせて史学科」に。以降、今日に至る。『史伝 北条義時』を担当。
●ライターI:ライター。月刊『サライ』等で執筆。『サライ』2022年1月号 鎌倉特集も執筆。好きな鎌倉武士は和田義盛。猫が好き。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり