はじめに─和田義盛とはどんな人物だったのか
和田義盛(わだよしもり)は、鎌倉時代前期の武将です。和田義盛も他の【日本史人物伝】で取り上げている「十三人の合議制」メンバーのひとりになります。
2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、横田栄司さんが義盛役を演じます。
⽬次
はじめに─和田義盛とはどんな人物だったのか
和田義盛が生きた時代
和田義盛の足跡と主な出来事
まとめ
和田義盛が生きた時代
義盛が生まれた久安三年(1147)は、未だ藤原頼長が内大臣をしている時代でした。また、平氏の平清盛に対する処遇で揺れていた時期でもあります。
貴族中心の社会から、武士中心の社会へと変化する過渡期に義盛は生を授かりました。勢力争いが激しかった時代に、義盛はどのような生涯を送ったのでしょうか。
和田義盛の足跡と主な出来事
それではさっそく、義盛が辿った人生に迫っていきましょう。
三浦氏の一族に生まれる
義盛は、三浦義明の孫で、義宗の子として生まれましたが、本家を継がずに和田姓を名乗りました。相模国三浦郡和田を本拠地としていたとされています。
源頼朝の挙兵に際し、近侍して信頼を得た
治承4年(1180)に大庭景親が、源頼朝を破った石橋山の戦いを経て、安房で頼朝と合流し、頼朝に付き従うこととなります。そこで頼朝からの信頼を得て、同年侍所の別当に補任され、御家人を統括する重要な役職を担うことに。
また、義盛も頼朝に再会できたことを涙ながらに喜び、「泣き嘆いても仕方のないことだ。今こそ一段と思いを入れて平氏を討ち滅ぼし、頼朝様の天下にしようじゃないか」と声を上げたそうです。
このことから、義盛の頼朝に対する気持ちの強さをうかがうことが出来ます。
侍所が設置され、侍所別当に補任される
ところで、侍所がどのような機関か、知っていますか? 元々は、宿直警護にあたる侍者が詰める所という意味で用いられていました。しかし、鎌倉時代になると、御家人統制機関としての色を強めるようになります。侍所の仕事は、非違の検断、罪人の決罰や幕府の宿直警護のほかに、戦いのときに御家人を統括する軍奉行などだったようです。
つまり、侍所の別当は御家人を取り仕切る重要なポスト。そのポストに補任されたわけですから、義盛がいかに頼朝に信頼されていたのかがわかりますね。
奥州藤原氏討伐の際、自ら出陣して武勲をたてた
文治5年(1189)になると、幕府は奥州藤原氏の討伐に乗り出します。このとき、義盛は侍所所司であった梶原景時と共に軍兵を集め、自らも出陣して武功を挙げました。
「十三人の合議制」が発足し、宿老の一人に選ばれる
正治元年(1199)頼朝が突如亡くなったため、頼朝の子でまだ幼かった頼家が、鎌倉幕府の二代将軍に。年齢的にも精神的にも幼かった頼家の政治権力の暴走を抑えるために、幕府は「十三人の合議制」という仕組みを導入します。
「十三人」というキーワードからも分かるように、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』はここに由来しているのです。十三人の有力御家人の合議によって政治を行おうとする仕組みを「十三人の合議制」といい、義盛もこのメンバーの一人として、政治の手綱を握ることになります。
加えて、同時期に義盛は、侍所の職務を二分して権力増大を図ろうとしていた梶原景時を失脚させ、権力をより強固なものにしていきました。
北条時政に助力して二代将軍頼家を退ける
建仁3年(1203)になると、二代将軍頼家と北条時政が対立するようになります。というのも、この頃、頼家が病に倒れ、この機会に頼家の権力を奪おうと考えた北条氏が、頼家亡き後、頼家の子である一幡と、頼朝の子である実朝にそれぞれ総地頭職と総守護職を分割支配しようと企んでいました。
権力を奪われることに不満を抱いた頼家は、義盛に北条時政追討を命じたのです。しかし、この時、義盛は逆に時政サイドについて頼家を廃してしまいました。
平賀朝雅の乱にて時政失脚後、幕府の最長老として権力を握る
元久2年(1205)に、時政の後妻であった牧の方が三代将軍実朝を廃そうと画策。これが直前で発覚したことにより、時政が失脚してしまったのです。これによって、義盛は、幕府の中で最長老として権力を握ることになりました。
北条氏の企てにより和田氏の乱が勃発、一族と共に敗死
初代将軍頼朝の死後、北条氏が幕府の実権を握っていく中で、有力御家人が次々と滅亡していました。他の有力御家人が滅んでいく中、執権の地位を得た北条義時にとって一番の大きな障壁が義盛だったのです。
一度は、時政サイドに付いたことで、北条氏との協力関係が築かれた義盛でしたが、義時が様々な策を講じて義盛を挑発したことで、不満が爆発し和田氏の乱が勃発します。
北条氏打倒を決意した義盛は、兵をあげて幕府を急襲しようと試みますが、同族で味方であったはずの三浦義村に裏切られてしまいました。
義村が北条氏側に通じていたため、北条氏は防御を固めることができ、大規模な合戦へと発展。結果として、義盛はその戦いの最中、67歳で戦死してしまいました。
まとめ
義盛は、鎌倉にある浄楽寺というお寺建立の願主でもあるのですが、奥州遠征の勝利の際に阿弥陀三尊を発願したとされています。しかし、勝利のためとされている一方で、一足早く運慶に仏像を依頼して願成就院を建立した時政への対抗心のための発願でもあったという説もあるようです。 この話からもわかるように、同じ幕府という組織の一員だとしても、一枚岩ではなかったことが伝わってきます。
文/清水鳴瀬(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)