はじめに-平清盛とはどんな人物だったのか
平清盛は、太政大臣となって平氏の政権を樹立した、平安末期の武将です。娘を天皇の中宮とし、天皇の外祖父となって権力をほしいままにしました。しかし、専横ぶりが反感を買い、各地に平氏追討の動きが活発になる中で、熱病にかかって病死。
2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、日本を支配する平家の総帥であり、源氏の宿敵(演:松平健)として描かれます。
目次
はじめにー平清盛とはどんな人物だったのか
平清盛が生きた時代
平清盛の足跡と主な出来事
まとめ
平清盛が生きた時代
平安前期に皇室の経済が窮迫し始めた結果、経費を軽減するため皇族はその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることが一般的となりました。平氏はそうした皇族賜姓の豪族の一つでした。
平安末期、平氏に生まれた清盛は、父・平忠盛(ただもり)が築きあげた武将としての地位や、西国の国守を歴任して蓄えた財力をもとに、平家武士団の首長を継ぎました。そして保元・平治の乱で勝利をおさめたことで、平氏政権を実現したのです。
平清盛の足跡と主な出来事
平清盛は、元永元年(1118)に生まれ、治承5年(1181)に没しています。その生涯を出来事とともに紐解いていきましょう。
平忠盛の嫡子として誕生
平清盛は平忠盛の嫡子ですが、実は白河院の落胤(らくいん)とも言われています。母は祇園女御(ぎおんのにょうご)の妹とする説が有力です。白河院の寵姫であった祇園女御の妹が懐妊したまま忠盛に下賜され、生まれたのが清盛だと考えられています。
保元・平治の乱を経て、台頭する
仁平3年(1153)父・忠盛の死没後、清盛は平家武士団の首長を継ぎます。そして平家一門を率い、武門棟梁(ぶもんのとうりょう)の一人として鳥羽院に仕えたのでした。保元元年(1156)、鳥羽院の死を契機に起こった「保元の乱」では、源義朝(よしとも)とともに後白河天皇方として勝利を収めます。
平治元年(1159)には「平治の乱」で源義朝を破り、以後は唯一の武門の棟梁として、国家権力の中で軍事を担当する権門としての地位を確立します。この間、父祖同様、肥後・安芸・播磨など西国の国守に任ぜられ、大宰大弐(だざいのだいに)として鎮西(=九州)の支配にも乗り出しています。
西国を基盤に武士の組織づくりに尽力する
この頃までに、清盛は西国に基盤を形成し、同地の武士組織に尽力しました。対宋貿易や海上交通に深い関心を示し、摂津の大輪田泊(おおわだのとまり)の修築を行なって宋船をここまで入航させることに成功します。また、伝説によれば、安芸の音戸(おんど)の瀬戸の開削(あるいは修復)も手がけたといわれています。
平家納経で有名な厳島神社への崇敬も、海上交通や西国武士組織と無関係ではないとされています。父祖以来、瀬戸内の海民の組織化に熱心であった平氏の一族として、清盛もその意識は海に向かって開かれていたのでした。
清盛への権力集中
「平治の乱」の後、昇進を急速に早め、永暦元年(1160)には参議正三位となり、武士として初めて公卿となりました。仁安2年(1167)には内大臣正二位から左右大臣を飛び越えて、一気に太政大臣へと昇りつめます。この時、清盛は50歳でした。
しかし、3か月後清盛は官を辞し、翌年病により出家、摂津福原(神戸市兵庫区)に引退します。ただ、その後も平家一門の総帥として朝廷内にも強い発言力を保持し続けました。
清盛による婚姻政策
清盛の昇進にともない、平家一門の人々の官位も昇り、また諸国の知行主(ちぎょうしゅ)・国守の地位を多く得て、平家は政治的・経済的に圧倒的優位に立つようになります。その権力集中を容易にした方策の一つに婚姻政策がありました。
一門の人々は政界の有力者とそれぞれ婚姻関係を結ぶこととなります。娘・盛子(せいし)は関白・藤原基実(もとざね)の室となり、その後、基実が24歳で他界したときには、その遺領を盛子に継がせることで、清盛は実質的に摂関家領を押領してしまったのです。盛子の妹・寛子は基実の子・基通(もとみち)の室となった他、徳子は高倉天皇の中宮となって安徳天皇を生んでいます。
この安徳天皇が即位したことにより、清盛は天皇の外祖父の地位を得ることとなったのでした。かつて院政を支える支柱として政界に台頭してきた平氏は、いまや政治権力そのものへと転化しつつあったのです。
独裁化にともない、院と対立を深める
平氏の勢力伸張は、一門による官位の独占、一門への知行国の集中、荘園の集積という現象をいっそう促進させました。このような政治的・経済的基盤は、院・貴族に代表される旧勢力の基盤でもあったため、平氏の進出によって旧勢力と平氏との間には対立摩擦が生じ始めます。
特にかつて平家の保護者的立場にあった後白河院とは、清盛の権力集中にともなって対立が深刻化していきます。治承元年(1177)、院近臣による平家討滅の陰謀が露顕した「鹿ヶ谷(ししがたに)事件」には、後白河院自身も荷担していると噂されました。
これを契機に清盛と院とは鋭い対立を見せ始め、平盛子の死去を機にその遺領を院が没収、清盛の嫡子・重盛(しげもり)死去の際には、その知行国である越前を院が奪いました。そこで清盛は大軍を率いて福原から上洛し、院を幽閉してクーデターを敢行、反平氏と思われる貴族の政界からの駆逐を図りました。ここに平氏は名実ともに政権を完全掌握することになります。
平氏が孤立化する中、病に死す
しかし、このことは反平氏の気運をいっそう強めることとなり、院・貴族・寺社に加え平氏政権本来の基盤であったはずの地方在地武士までもが反平氏という立場で結束します。治承4年(1180)5月には以仁王(もちひとおう)の挙兵、8月には伊豆の源頼朝、9月には木曾の源義仲の挙兵と、諸国源氏の蜂起が相次ぎました。
これに対し、清盛は福原遷都、南都焼打ちを敢行して対抗しようとしましたが、かえって旧勢力の反感を買い、仏敵の汚名を着せられ、平氏の孤立化を深めることとなりました。全国が内乱状態に陥るなかで、治承5年(1181)2月4日、清盛は熱病に冒され、事態を憂慮しながら64歳の生涯を閉じました。
まとめ
武士で初めて太政大臣となり、平氏一門の栄華を築き上げた平清盛。そのイメージは、『平家物語』で描かれる、悪しき成り上がり者といったものが強いかもしれません。ただ、彼によって興った武家政治はその後700年ほど続き、開いた神戸の港は今も使われています。このことから後の世に与えた影響は、計り知れないものがあるといえるでしょう。
文/豊田莉子(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com
Facebook:https://www.facebook.com/kyotomedialine/
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)
『国史⼤辞典』(吉川弘⽂館)