現在の埼玉県北部に位置する血洗島村。そこで育った渋沢栄一にとって、10歳年上の従兄弟尾高惇忠の存在こそが重要であった。
かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
* * *
大河ドラマ『青天を衝け』では、渋沢栄一(演・吉沢亮)と深い関係にある尾高家の人々が物語のキーパーソンとして登場し、注目を集めている。
尾高家の人々は、栄一の人格形成に大きな影響を与え、栄一の生涯の節々でその活動を支えることになる。
尾高惇忠(おだかじゅんちゅう/演・田辺誠一)は、若き日の栄一にとって学問の師であった。その弟の長七郎(演・満島真之介)も栄一の兄貴分と言える存在だった。彼ら尾高兄弟の妹「ちよ(演・橋本愛)」は、のちに栄一の最初の妻となるため、尾高兄弟は栄一の義兄となった。
そして、一番下の弟平九郎(演・岡田健史)は、のちに栄一の見立て養子(相続人扱い)となるが、兄たちとともに戊辰戦争に参戦して命を落とすことになる。
この尾高家、もともと渋沢家とは縁戚関係にあった。栄一の父市郎右衛門(演・小林薫)は、渋沢一族の「東ノ家」から宗家である「中ノ家(市郎右衛門家)」に婿養子に入った。その実父、すなわち「東ノ家」の当主は2代目宗助(演・平泉成)を名乗っていた。
この2代目宗助の娘で、栄一の父市郎右衛門の妹にあたる「やへ(演・手塚理美)」は、栄一らの暮らす血洗島村に隣接する武蔵国榛沢郡の下手計村(現深谷市下手計)の尾高勝五郎に嫁入りした。
この尾高勝五郎・やへ夫妻の子どもが、惇忠・長七郎・ちよ・平九郎たち兄妹なのだ。つまり、彼らは栄一の従兄妹ということになる。
尾高家と、栄一の「中ノ家」の距離は約1.5km。指呼の間と言える。尾高家も渋沢家と同じく農家だったが、藍玉の加工販売や米・塩・油など生活必需品の販売も手掛ける、豊かな商家でもあった。
尾高惇忠は、文政13年(1830)の生まれで、栄一より10歳上となる。惇忠は7歳のころから村の儒者や長老から「四書」「五経」といった儒学・儒教の基本文献の読解を学んだ。そして万巻の書を読み漁り、学問を収める。加えて10歳のころからは大川平兵衛という剣客に神道無念流の剣術を学び、まさに文武両道の青年へと成長していった。
惇忠は、12歳の折に父に連れられて常陸国に行き、そこで水戸藩主徳川斉昭が指揮する追鳥狩(おいとりがり)の演習を見る機会を得た。この狩猟形式の軍事演習は、対外的な危機感を抱いた斉昭が、日本を守るために外国人を打ち払うという「攘夷」の思想を鼓吹するために行なった、華やかな軍事デモンストレーションだった。
この体験をきっかけに、惇忠は徳川斉昭に尊崇の念を寄せるようになり、自然の流れで水戸学や尊王攘夷思想にも強く惹かれるようになった。
とはいえ、父勝五郎は早世したらしく、15歳になった惇忠は家業を継ぐことになる。一方で、やはり向学心を押さえられなかったのか。あるいはせっかく身に付けた学問を無駄にしたくはなかったのか、17歳になると自宅に私塾「尾高塾」を開き、近隣の少年たちに学問講義をするようになる。
7歳になった栄一も、その教え子のひとりになった。それまで栄一は、父市郎右衛門から学問の手ほどきを受けていた。市郎右衛門は、若き日には武士なろうと志したことがあるほどで、学問や武芸の心得があったのだ。
息子栄一に学問の才があることを気づいた市郎右衛門は、より高度な教育を受けさせるため。地元では優秀の誉れが高かった甥の尾高惇忠に息子の教育を託したのだろう。
【栄達した渋沢栄一の引きで惇忠も出世。次ページに続きます】