東京・上野からJR高崎線で約1時間半。煉瓦風の外観も荘厳な深谷駅に着く。栄一生誕の地に立つ駅舎は東京駅にそっくりだ。
深谷駅が東京駅をイメージして改築されたのは平成8年。元はといえば、大正3年(1914)、煉瓦造りの東京駅が建てられたとき、その煉瓦を供給したのが深谷にあった日本煉瓦製造だった。
日本煉瓦製造は、渋沢栄一らが設立。深谷は古くから瓦作りが盛んで、その土が煉瓦に適していた。
駅の北口に栄一の座像がある。まずはその像に一礼し、渋沢栄一記念館へ向かう。栄一の生誕地は「血洗島(ちあらいじま)」という。いわくありげな地名だ。同館学芸員の馬場裕子さんは語る。
「栄一は、赤城山の神がほかの山の神と戦い、そのときに洗った血が由来と話しています。ほかに荒れた土地、アイヌ語の崖が語源など、いろいろな説があります」
館内で目をひくのは3頭の獅子頭だ。付近の諏訪神社でいまも舞われており栄一も舞い手だった。
栄一が生まれた場所は記念館から西へ約800m。通称「中ん家(なかのんち)」という。一帯には渋沢姓が多く、その中心にある家という意味だ。
現在の家屋は明治の建築。奥の10畳の間は栄一を迎える部屋で、帰郷した栄一はこの部屋で寛いだ。
栄一に大きな影響を与えた尾高惇忠の生家は、記念館の南東約700mにある。
「若き日の栄一と惇忠が、2階の部屋で横浜外国人居留地の焼討を計画した家です。血気盛んなふたりの息遣いがいまも伝わってきます」と馬場さんは語る。
瀟洒な煉瓦造りが目立つ町
尾高惇忠の生家から南東約1.3kmの大寄公民館敷地内に、栄一ゆかりの建物が2棟ある。いずれも瀟洒な煉瓦造りで、東京から移築されたものだ。
誠之堂は栄一の喜寿を記念して第一銀行(第一国立銀行の後身)の行員たちが出資して建てた。
解体のときに外壁や基礎などの煉瓦から「上敷免製」の刻印がみつかり、上敷免の地にあった日本煉瓦製造の煉瓦と確認された。
清風亭は、第一銀行で栄一を補佐した佐々木勇之助の古稀を祝して、やはり第一銀行の行員たちが建てたもの。スペイン風の様式で、平成11年に誠之堂とともに、いまの地に移築復元された。
栄一が、部下たちからいかに慕われていたかを物語っている。
撮影/宮地 工
※この記事は『サライ』本誌2021年2月号より転載しました。