日本資本主義の父とも呼ばれる渋沢栄一を主人公とする今年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』。放映開始から1か月余。これまであまり知られていなかった広義の〈江戸経済圏〉が描かれるのはやはり斬新だ。わずか2万石あまりの岡部藩の先進性について、かつて歴史ファンを虜にし、全盛期には10万部を超える発行部数を誇った『歴史読本』(2015年休刊)の元編集者で、歴史書籍編集プロダクション「三猿舎」代表を務める安田清人氏がリポートする。
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渋沢栄一(演・吉沢亮)は、幕末一歩手前の天保11年(1840)に、武蔵国榛沢郡の血洗島村(ちあらいじまむら)という村の裕福な豪農の家に生まれた。現在の埼玉県深谷市だ。天保11年と言えばアヘン戦争が起きた年で、長州の久坂玄瑞や薩摩の黒田清隆が同い年ということになる。
血洗島村は、北に舟運が盛んだった利根川が流れ、南には中山道の深谷宿があった。利根川に面した中瀬という土地は、現在ではこぢんまりとした集落に過ぎないが、当時は船着き場や、舟運で運ばれた物資を売買する問屋や蔵が立ち並ぶ商業地だった。
深谷宿は、現在のJR深谷駅から北に500メートルほどの国道17号線(中山道)沿いの宿場で、中山道最大規模の宿場だった。天保14年の記録では、本陣、脇本陣の他80軒もの旅籠が立ち並び、人口も1928人だったという。
血洗島村は農村とはいえ、交通や物資の輸送の要地に近く、江戸までは20里(約80キロ)と、歩いて二日の近場だったこともあり、文化的にも経済的にも進んだ土地だった。
血洗島村は、岡部藩という石高2万石少々の小藩の藩領だった。藩主の安部(あんべ)氏は三河(愛知県東部)以来の徳川直臣で、四代将軍徳川家綱付の幕府直轄軍(大番)の部隊長だった安部信盛が1万石以上の大名格となって岡部に陣屋を構えたのが岡部藩の始まりだ。渋沢が生まれた当時の藩主は、12代藩主の安部信宝(のぶたか)という人物だった。
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