いよいよNHK大河ドラマ『麒麟がくる』もクライマックスが迫り、「本能寺の変」、その日が近づいて参りました。これまで織田信長目線での「本能寺の変」は幾つも描かれてきましたが、『麒麟がくる』の出演者たちも「これまで描かれなかった『本能寺の変』になる」というコメントをしています。
今回は、光秀がついに信長を討つことを決意して軍を進めた、丹波亀山城から「本能寺への道」を辿りました。
『明智軍記』によると、丹波亀山城を出発した光秀の軍は、本能寺に向かう際に3つの隊に分けたとされています。本隊は山陰街道の老ノ坂(おいのさか)越え、別働隊は2つに分かれ、1隊は明智越で水尾から保津峡を経由、もう1隊は唐櫃越(からとごえ)をしたのではないかと推測されています。
その中でも歴史ファンにも人気が高く、ハイキングコースとして整備されている唐櫃越ルートを、実際に踏破してみました。全行程は長いので、前編後編にわけて動画を作成しております。明智軍が本能寺へ向かったとされる全行程を動画でご視聴ください。
■1582年6月1日夜、重臣に謀反を打ち明ける
「本能寺の変」前夜、丹波亀山城から、光秀は約1万3000人の軍勢を率いて、羽柴秀吉の援軍として備中(岡山県)に向けて出発しましたが、途中で引き返したと『信長公記』で伝えられています。
その後、一説には亀岡にある篠村八幡宮(動画をご参照ください)にて、明智秀満・明智治右衛門・斎藤利三・藤田伝吾の重臣だけに心中を打ち明けたそうです(そこには溝尾庄兵衛がいたとも言われています)。
江戸時代に書かれた『川角(かわすみ)太閤記』によると、重臣たちは「めでたいことをお考えになりました」と言い、主君の決断に賛同したと伝えられています。一方、多くの兵たちには、中国出陣の前に信長公の検分を受ける、と説明していたそうです。
■1582年6月1日深夜、京へと向かう唐櫃越
唐櫃越は南北朝・応仁の乱等で丹波国と京都・山城国を往来する軍道として盛んに利用されてきた道。光秀が進んだと言われる山陰道より少し近道になりますが、海抜400mの山頂付近を通るため、険しい山道が続きます。
みすぎ山を越えれば、緩やかな山道に。とはいえ、このルートを深夜に行軍していたことを思うと、視界や足場の悪さには苦労したことがうかがえます。
■1582年6月2日早朝、「敵は本能寺にあり」
真偽は定かではありませんが、3隊は桂川で合流し、本能寺へと向かったとされています。桂川を前に、光秀は、「馬の沓を外すこと」、「新しい草履に履き替えること」、「火縄銃の火縄に点火すること」を命じました。そして、桂川を渡り終えた後、本能寺にいる信長と妙覚寺にいる信長の嫡男・信忠を討つことを全軍に伝えたと言います。セリフ自体は後年の創作だったのではとも言われていますが、有名な「敵は本能寺にあり」の場面です。
その後、本能寺を包囲した明智軍は一斉攻撃。信長は前夜、茶会をした後、囲碁をして就寝していたそうですが、鉄砲の音で光秀の襲撃を知りました。森蘭丸らと防戦しましたが、その後自刃。妙覚寺から移動し、二条御所に籠っていた信忠も明智軍に追い詰められ、自刃しました。
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丹波亀山城跡を出発して唐櫃越をし、京都市内に辿り着くまで、およそ5時間ほどの道のりになります。明智光秀が、如何なる理由で「本能寺の変」を企てたかは諸説あり、未だ定かではありません。また、どのルートを経て本能寺へ辿り着いたかも謎とされています。しかしながら、実際に“本能寺への道”とされる歴史古道を辿りながら、あなたなりの「本能寺の変」の謎解きをしてみては如何でしょうか?
もしかすると、明智光秀の「麒麟への想い」を感じることができるかもしれませんね。是非、ご友人などとチャレンジしてみることをお勧めします。
■アクセス情報
「篠村八幡宮」
住所:亀岡市篠町篠八幡裏4
JR「馬堀」下車、徒歩約20分
「唐櫃越」
亀岡市篠町山本地区から京都市嵐山の西芳寺(苔寺)付近に至るまでの尾根道
「本能寺跡」
住所:京都府京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町
阪急電車「大宮」もしくは京福電車「四条大宮」下車、徒歩約10分
取材・文/末原美裕(京都メディアライン)
撮影・動画撮影/京都メディアライン
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