取材・文/坂口鈴香
ファイナンシャルプランナーとして、終活に力を入れて活動をしている日高了さん(仮名・54)は、15年前末期がんだった父親を看取った。独身だった日高さんと母親が兄家族の家に移り住み、在宅介護をしたのだ。手術は受けないと決め、その後も医療は拒否したままだった。手術を受けさせないという判断は間違っていなかったとは思う。しかし、父に手術を受けさせたらどうなっていただろうと、今もしばしば思い返す。
父の死後、日高さんと母親は自宅に戻り、10年ほどして日高さんは結婚し、実家近くのマンションに移った。
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「あの人、怖い」
「そのころ、母に認知症の症状が出るようになったんです。結婚後も母の様子を見に、ちょくちょく実家に行っていたんですが、火の始末が危なくなっていました。鍋を焦がしたり、風呂場で転んだりと、一人にしておくのは危ないなと思うようになりました」
それでも母親を医者に連れていくことはなかったという。「薬をもらっても治るわけではないので」と、日高さんの医療への不信はまだ続いていた。
「一緒に暮らさないか」と言う兄に、母親は当初「一人で大丈夫」と同居を拒んでいたが、その後自宅を処分し、兄の家に移った。すんなり兄の言葉に従ったのは、体の衰えを自覚していたのかもしれない。
兄の家に移ると母親はたびたび体調を崩すようになり、ついには肺炎を起こして入院。そして、退院するとまもなく特別養護老人ホームに入所することになった。入所希望者数百人、何年も待たなければ入れないと聞くが、日高さんの母親は驚くほどスムーズに入所できている。
日高さんは「兄の住む地域は田舎だし、その特養は4人部屋だったので、そんなに待たずに入ることができたようです」というが、何年も待っている人にとっては夢のような話だろう。しかし、ここは母親の終の棲家にはならなかった。
「入所してまもなく、母が特定の介護職員を指して『あの人、怖い』と言うようになったんです。母は私たちの顔もわかっていましたので、母の思い違いとは思えませんでした。兄も、その介護職員がほかの入所者にひどい言葉を浴びせたり、乱暴な扱いをしたりするのを見たというんです。母も同じことをされていたに違いありません」
兄も日高さんも施設に対して怒りを覚えたが、施設に言っても何も変わらないだろうというあきらめがあったという。
「臭いもしていましたし、環境も明らかに悪かったんです。そう重度ではない母にこの施設は合わないと思いました。それで、せっかく入れた特養でしたが、違う施設に移ることにしました」
また持ち直すと思っていた
兄が見つけたのは、サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)だった。介護費用を入れても月に約12万円と安く、母親の年金でも十分暮らせるところだった。
「部屋はトイレがついているだけです。母は食事も自分ではつくれないし、入浴も一人ではしないので、それで十分でした」
サ高住に入ってからも、母親は何度も肺炎を起こし、入退院を繰り返した。
「だから最後の入院となったときも、食事はとれなくなっていたものの、また持ち直して退院できると思っていました。最期の半月ほどは、兄姉と交代で病室に泊まり込んだんですが、認知症だったせいか、あまり苦しそうにも見えなかったんです」
そのせいで、最期は管だらけで、延命治療のようなことになってしまったと悔やむ。
「母にとってこの形は望んだことだったのか、今もわかりません。苦しそうには見えなかったとはいえ、最期の治療、いや、処置は無駄なことだったんじゃないか……。父の経験から、最期は病院という選択肢もあるのではないかとは思っていましたが、結果的にまったく逆のことをしたようで、これもいまだに自問することになってしまいました」
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取材・文/坂口鈴香
終の棲家や高齢の親と家族の関係などに関する記事を中心に執筆する“終活ライター”。訪問した施設は100か所以上。20年ほど前に親を呼び寄せ、母を見送った経験から、人生の終末期や家族の思いなどについて探求している。