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聖なる山として崇められてきた、チベット高原西部に位置する独立峰のカイラス山。この地で作家の夢枕獏さんは、宮沢賢治の詩集『春と修羅』に登場する「青玻璃の風」に出会ったという。

詩集『春と修羅』、童話『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』『風の又三郎』…。独特の世界観で数々の名作を残した宮沢賢治が岩手に生まれて今年で120年。高校生のときに『春と修羅』に出会い、賢治が紡いだ言葉に今も刺激されながら小説を書くという作家の夢枕獏さんに、賢治にまつわる忘れられない体験を語っていただいた。

賢治の精神世界から”転げ出てくる”言葉

“青玻璃(せいはり)の風”。これは宮沢賢治が詩の中に描いた言葉。僕はこの“風”に、チベットで出会いました。

ユーラシア大陸中央部、チベット高原西部に位置する独立峰「カイラス山」(標高6656m)。チベット仏教においては世界の中心にある山「須弥山(しゅみせん)」に模され、巡礼の聖地として崇(あが)められてきた山です。その麓に、チベット三大聖湖のひとつ「マナサロワール湖」があります。仏教教典にある聖なる湖「阿耨達池(あのくたっち)」がこの湖とされ、多くの巡礼者が訪れる場所です。

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チベット三大聖湖のひとつマナサロワール湖。チベットへの旅の情報・問い合わせは、西遊旅行まで。

僕は20年ほど前、この聖域を旅しました。ネパール・カトマンズから入り、カイラス山へ。標高約4500mのチベット高原を10日ほどかけてジープで走り向かいます。車窓に映るのは途方もなく広く荒涼とした大地。振り返れば急峻な山々が連なるヒマラヤ山脈。その迫力ある風景に圧倒されながら、次の日も次の日も同じ景色の中を走り続けました。

そんな風景に見飽きてきた8日目、真夜中のこと。峠にさしかかると、ジープが急に停まりました。運転手やガイドは車を降り、「キャンプ地が見つからない」と辺りを見渡します。もしや道に迷ったか? すると彼らは真っ暗な道でいきなり座ったかと思うと、両手、両膝、額を地面に投げ伏しました。仏に礼拝する「五体投地」を始めたのです。

なぜ、こんな場所で…。すると地平線の向こうに、きらっと白い三角形が光りました。何だろう。夜明けが近づくにつれ、三角の輪郭はくっきりと空に栄え、それが“山”であることがわかりました。

「カイラス山!」。真っ白な山の下には音なく湛える玲瓏(れいろう)な湖「マナサロワール湖」。山の雪解け水を蓄えた透明な水の美しさに、僕は言葉を失いました。

そのときでした。希薄な空気の中で、まるで硝子(水晶)のように研ぎ澄まされた冷たい風が吹いたのです。

「ああ、これが宮沢賢治の言う『青玻璃の風』か」

《砕ける雪の眼路をかぎり/れいろうの天の海には/青玻璃の風が行き交ひ/ZYPRESSEN 春のいちれつ/くろぐろと光素を吸ひ/その暗い脚並からは/天山の雪の稜さへひかるのに/(かげろふの波と白い偏光)/まことのことばはうしなはれ/雲はちぎれてそらをとぶ》(宮沢賢治著・詩集『春と修羅』より)

賢治はこの場所を訪れてはいません。しかし、仏典や書物などから想像を膨らませ、まるでこの湖を見たかのごとく詩や童話に描きました。

《その赤ぐろく濁った原の南のはてに/白くひかってゐるものは/阿耨達、四海に注ぐ四つの河の源の水》(宮沢賢治『阿耨達池幻想曲』より)

僕が宮沢賢治文学で一番好きなのが、この精神世界から転げ出てくる言葉です。考えて出る言葉ではない。風や雷、吹雪、林のザワザワ鳴る音など自然現象と同じように、何の迷いもなく湧き出てくる。それらはすべて、宇宙や銀河系を心に思い描いて創造した言葉――。だからこそ国境を飛び越え、遠いチベットの荒野にも賢治の言葉は息づいている。最果ての地の山や湖に、神々とともに宿っているのです。

【『阿耨達池幻想曲』より後半を抜粋】

《赤い花咲く苔の氈
/もう薄明がぢき黄昏に入り交られる
/その赤ぐろく濁った原の南のはてに/
白くひかってゐるものは/
阿耨達、四海に注ぐ四つの河の源の水/
 ……水ではないぞ 曹達か何かの結晶だぞ/
悦んでゐて欺されたとき悔むなよ……/ 
まっ白な石英の砂/
音なく湛えるほんたうの水/
もうわたくしは阿耨達池の白い渚に立ってゐる/
砂がきしきし鳴ってゐる/
わたくしはその一つまみをとって/
そらの微光にしらべてみやう/
すきとほる複六方錐/
人の世界の石英安山岩(デサイト)か
流紋岩(リパライト)から来たやうである/
わたくしは水際に下りて
水にふるえる手をひたす/
……こいつは過冷却の水だ
/氷相当官なのだ……
/いまわたくしのてのひらは/
魚のやうに燐光を出し/
波には赤い条がきらめく》

夢枕獏(ゆめまくら・ばく)
1951年、神奈川県生まれ。東海大学文学部日本文学科卒業。1977年、『カエルの死』で作家デビュー。以後、『キマイラ』『サイコダイバー』『闇狩り師』『餓狼伝』『大帝の剣』『陰陽師』などのシリーズ作品を発表。1989年、宮沢賢治を描いた『上弦の月を喰べる獅子』で日本SF大賞、1998年、『神々の山嶺』で柴田錬三郎賞。2011年、『大江戸釣客伝』で泉鏡花文学賞と舟橋聖一文学賞など受賞。2016年、大冒険小説『大江戸恐竜伝』が漫画家され、『ビックコミック オリジナル』(小社刊)で新連載がスタート。詳しくはブログ:酔魚亭

取材・文/松浦裕子

 

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