文・写真/阿信(海外書き人クラブ/中国上海在住ライター)
租界時代華やかなりし1920、1930年代を中心に、数多くの名建築が上海に登場した。この時代の建築の多くは海を渡ってこの地にやってきた外国人建築家によって設計・建築され、今なおその美しい姿を残している。
今回紹介するのは、そんな上海の租界が最も華やいだ時期にフランスから上海に渡り、数多くの名建築を残したフランス人建築家・ライアン。彼が手掛けた建築は旧建築愛好家ならずとも、そのすばらしさが感じられる。
上記は数少ないライアンの写真である。租界時代に発行されたフランス語新聞Le Journal de Shanghai(仏文上海日報)に掲載された。ライアンの本名はAlexandre Leonardであるが、中国ではライアン(中国語表記で「頼安」または「賚安」)の名前で呼ばれている。この名は彼が上海に渡る前、出身地であるパリの華人から「ライアン」という中国名を名付けてもらったことからという。
近年、上海の旧建築愛好家の中で、ライアンは注目が高まるも、知名度は高くなく、資料も多くない。彼がいつ・どのように上海から姿を消したかも謎に包まれている。彼が上海に残した建築をたどりつつ、彼の上海での歩みを紹介する。
「東洋のパリ」と讃えられた、上海に残る西洋風建築
上記の建物はフランス租界を代表する建築「ノルマンディーアパート(現・武漢大楼) 」。設計は上海租界時代きっての有名建築家・ヒューデック。ハンガリー人のヒューデックは上海の建築愛好家の中でも名が知られ、記念館も建てられている一方、ライアンについてはその名があまり知られていない。
ライアンが手掛けた建築で、日本との関連があるものは、こちらの華麗な装飾の建物。ここはかつて「フランスクラブ」と呼ばれ、上海に住むフランス人名士たちの社交場であった。
現在は日系の「ガーデンホテル」として上海を訪れる日本人の定番ホテルとなっている。現在フランスクラブの建物部分はガーデンホテルのエントランスと最高級の宴会場・グランドボールルームとして使用されている。館内は今もタイルや、階段、天井のステンドグラスに往時のおもかげが見られる。
パリから上海にやってきたフランス人建築家
ライアンはフランス・パリ生まれ。エコール・デ・ボザール(パリ国立高等美術学校)で設計を学んだ。彼が初めて上海の地を踏んだのは1919年、29歳の時だった。当時、上海ではまさに租界時代の繁栄が頂点を極めつつあり、多くの不動産開発プロジェクトが立ち上がっていた。ライアンは設計の実務経験がなかった為、上海到着早々はフランス語の教師の仕事をしつつ、余った時間に設計の仕事をしていたが、徐々に手腕が認められ、建築の仕事が増えていった。
1922年、ライアンが最初に設計した邸宅が完成した。円形出窓が印象的なこの邸宅は、当時上海に住む外国人たちの娯楽であった、ドッグレース場の職員住宅として建てられた。現在は多くの世帯が住む集合住宅となっている。
ライアンが上海に残した建築
ライアンが上海に住んだのは1919年から1946年。彼が手掛けた建築を軸にして上海での歩みをたどる。1920年初期は個人の邸宅をメインに20件ほどの建築を手がけた。転機が訪れたのは1926年。設計コンペを勝ち取り、フランスクラブの設計を手掛けたことで、ライアンは一気に名声を得た。ライアンは共同経営者と建築事務所を立ち上げた。建築事務所の英名はライアンの本名と共同経営者の「Alexandre Leonard & Paul Veyssiere」と言うが、中国名では「ライアン洋行」と呼ばれた。「洋行」とは当時でいう外資系企業を表す社名である。ライアン洋行は設立後次々と学校、警察署といった大型公共施設、マンションなどの建設プロジェクトを手掛けた。
ライアン洋行の顧客はフランス人にとどまらず、当時上海裏社会を取り仕切っていた闇組織のボスが設立した銀行や小学校、中国一の富豪になった商人の邸宅など、中国人の顧客も名を連ねている。ライアンが上海で手掛けた建築は現存していないものも含め、計150件にのぼると言われている。現存している建築の多くは上海市の歴史的建造物に指定されている。
私生活では1925年、ライアンは出張先の青島でユダヤ系ロシア貴族出身のエリザベス(Elisabeth Hvoroff)と知り合った。当時、中国ではロシア革命の迫害を逃れて移り住んだロシア人が多くおり、エリザベスもその一人だった。その後、エリザベスは青島でライアンとの娘ナルイットを出産、上海へ赴き家族3人の生活を開始した。彼らが住んだのはライアン自身が設計した邸宅。大きなガラスが印象的な、非常にモダンな建築である。
家族3人で生活していた期間、ライアンの仕事も非常に順調であった。しかし幸せな生活は長く続かず、1934年、エリザベスは8歳の娘を遺し病気の為この世を去った。
妻の死に失意に暮れるライアンであったが、仕事の依頼は続いた。妻の死去後初めて手掛けた建築は、幼い娘が頭にリボンを着け、くるくると踊る姿からインスピレーションを受けて設計したと言われる。
非難を受けた再婚、最後のライアン建築
1935年に上海は不景気に見舞われ、ライアンの仕事面にも影響を与えた。その頃ライアンは先立たれた元妻エリザベスと同じユダヤ系ロシア人で、ナイトクラブでダンサーをしていたアンナ(Anna Ivanovna Bowshis)と知り合った。1936年、ライアンはアンナと再婚した。しかし、当時ユダヤ人に対する激しい差別から、有名建築家であるライアンの再婚は新聞でも非難されるほどであった。
その後、上海では戦火の影響により外国人が続々と上海を離れる事態となった。1939年、ライアンは当時13歳の娘を汽車に乗せ、フランスへ帰した。1941年にライアンとアンナが住んだマンションが「アマイロンアパート」。ライアンが上海に残した最後の建築である。アマイロン(Amyron)とはヘブライ語由来という。エントランスホールにはAとLが組み合わされたようなマークが残っており、このマークはライアンとアンナ、二人の名前の頭文字からとっている、という説がある。
「ライアン洋行」の閉鎖、謎の失踪
その後、戦況はますます悪化、1942年、ライアン洋行閉鎖。翌年、フランス租界は接収され、租界の時代も終焉した。1945年の終戦とともに多くの外国人が上海を去ったが、ライアンとアンナは上海に残った。その時の彼らの間で交わされたやり取りや葛藤については今では知る由もない。1946年3月、ライアンはアマイロンアパートを出た。これ以降ライアンの姿を見た者はいない。
2か月後、上海にあるフランス領事館の領事が「ライアンの遺書」を受け取る。その受取記録は今も残っており、差出人は、ライアンが1946年5月20日に上海で死去したことを伝えた。ライアンが亡くなった場所も記録に残っているが、その場所は存在しない住所である。届けられた「ライアンの遺書」は開封されることはなく、誰も内容を見ないまま、今も上海の資料館で眠っている。ライアンは亡くなったとされるものの、彼の遺体も見つかっていない。年月は流れ、彼が手掛けた建築が上海の街並みをいろどり、人々の目を楽しませている。
阿信(海外書き人クラブ/中国上海在住ライター)
中国・上海在住。シンクタンクや外資系企業での勤務経験あり。日中国際結婚、中国生活や育児、趣味の上海街歩きを中心にSNSを運営。ライター業では旅行サイトにて上海観光情報についての連載をもつ他、現地情報やマーケティング関連のレポートも執筆。海外書き人クラブ会員(https://www.kaigaikakibito.com/)。