文・写真/千夏英二(海外書き人クラブ/オーストリア在住ライター)
突然いくつもの警報が一斉に鳴りはじめた。かざした手には放射線測定器。画面には毎時6.87マイクロシーベルトの値が読めた。「注意しろよ」顔を合わせて確かめ合う。周りは穏やかな森。本当にこんな平穏な場所が危険なのか?ここは悪名高きチェルノブイリの立入制限地区だ。
ご存知のように、1986年4月26日1時23分、チェルノブイリ原子力発電所4号炉はメルトダウンした。非常用発電の実験中だったという。短期的な死者は30数人だが、長期的な被害者は数千とも数万ともいわれ、避難民は10万人を超えた。事故から30年以上たった今も半径30kmは危険区域に指定されており、立ち入りが厳しく制限されている。
しかし、実は2010年以降、チェルノブイリは観光が可能である。また、折りしもアメリカのドラマ「チェルノブイリ」が大ヒットし、現在冒険好きの旅行者の熱視線を受けている。世界有数の危険スポットに潜入した。
立ち入り制限区域
チェルノブイリはウクライナの北部、ベラルーシとの国境近くに位置している。遠そうだが、実は首都キエフから日帰りできる程度の距離だ。
チェルノブイリは厳格に管理されているため、訪れるにはツアーに参加するのが一般的だ。ネットで予約を入れると、長々とした注意事項や規則が書かれた誓約書メールが送られてきた。ツアー数日前までに提出しろという。同意するのに少し怖くなったが、パスポート情報などを入力して送り返した。
集合はキエフのヘソにあるマイダン(独立広場)。ここからミニバンに揺られて2時間半程度だ。車中で放映されたビデオはよくできていて、非常に興味深かった。これを見ないで行くのはちょっと意味がないかもしれない。夢中になって見ていると、あっという間にチェルノブイリの検問所が眼前に現れた。
驚いたことに、小さな検問は観光客でごったがえしていた。朝のラッシュはこのように渋滞するらしい。開閉ゲートの脇にはパネル展示がある。一際目立つのが道の両側に展開された小さなポップアップ・ショップ。チェルノブイリ・グッズが所狭しに並ぶ。放射性標識があちこちにデザインされている。
検問所ではパスポートチェックがあり、首にかける小さな器具を渡される。帰り際にここで返還して放射線量を調べるらしい。すべての準備は整った。いよいよチェルノブイリ突入という感じだ。
チェルノブイリで食事
森の間を抜ける道を数十分走ると、建物が見え始めてくる。ここで最初のストップ。初めて外の空気に触れ、地面に降り立つ機会なので、一抹の不安を感じる瞬間だ。そこにあったのは、チェルノブイリの名が刻まれたゲート。
さらにミニバンで少しすすむと次第に街の様相を呈してきた。私たちはまずいろいろな記念碑や像を見せられた。危険な事故処理を行った作業員の碑、周辺の地図を表したオブジェ、チェルノブイリの村の名前が書かれた立札。
その後昼食時間となった。我々はチェルノブイリの労働者のための食堂に入った。食材は全て外部から搬入されているので安全とのこと。食材の管理と放射線を疑えばきりがないのだが、やはり気にはなる。出てきた炒めたポークと野菜は悪くなかったが、楽しむという気分ではなかった。
ちなみに最近チェルノブイリでウォッカを作ったというニュースが流れた。長年汚染の研究をしてきたイギリスの大学教授が製造した純チェルノブイリ産。今後増産し一般販売するという。気になる名前はというと、「アトミック」というのだからお洒落だ。
忽然と現れた正体不明の建造物
昼食後いよいよ原発と思いきや、森の中で下ろされる。これ見よがしなソ連の星が備えられた門をくぐり、いくつかの廃墟となった建物を過ぎる。森が開ける場所にたどり着くと、眼前に見たこともない鉄筋構造が顔を出した。高さは10階建てのビルほどか。これが数百メートルに渡って連なり巨大な壁のようになっている。この想像を絶する巨大建造物の正体は?
実はこれはドゥーガ・レーダーと呼ばれる旧ソ連の弾道ミサイル早期警戒システムだ。水平線よりも遠くの目標を探知できる。そのSFチックで巨大な立体構造は冷戦のノスタルジーを感じさせる。
ガイドはスウェーデン人観光客の逸話を語ってくれた。その男性は紳士だったが、ここのポールに蹴りを入れたので驚いたという。話は、数十年前のことだ。アマチュア無線家の彼の受信機にいらだつようなノイズがよく入り込んで来たらしい。その正体こそこの探知機が発する電波だったのだという。当時その独特な音から「ロシアのキツツキ」と呼ばれたそうだ。1976年に導入され1989年まで運用されたというから、原発事故後も稼動していたことになる。
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