文・写真/千夏英二(海外書き人クラブ/オーストリア在住ライター)
ご存知のように、1986年4月26日1時23分、チェルノブイリ原子力発電所4号炉はメルトダウンした。非常用発電の実験中だったという。短期的な死者は30数人だが、長期的な被害者は数千とも数万ともいわれ、避難民は10万人を超えた。事故から30年以上たった今も半径30kmは危険区域に指定されており、立ち入りが厳しく制限されている。
しかし、実は2010年以降、チェルノブイリは観光が可能である。また、折りしもアメリカのドラマ「チェルノブイリ」が大ヒットし、現在冒険好きの旅行者の熱視線を受けている。世界有数の危険スポットに潜入した。
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旧ソ夢の跡
原子炉を後にした我々は3km離れたプリピャチに向った。ツアー第二の目玉である。
チェルノブイリ原発のために建設されたプリピャチは、旧ソ連の夢を体現するための都市だった。ところが、避難勧告が出たため、5万人の町はたった1日でゴースト・タウンになってしまった。避難民は最低限の手荷物をもってバスに乗り込んだものの、事故発生からすでに38時間が経過していた。
川辺にあったカフェは木々に侵食され今にも森に覆われそうだ。当時の写真からはモダンなシーサイド・カフェだった様子がうかがえる。このあたりもホット・スポットが点在し、今回のツアーでは最高の毎時18マイクロ・シーベルトを計測した。
他にも映画館、ホテル、文化会館、サッカー場まで放置された状態で残っている。人影がなくなった街はちょっと不気味だ。隣接する小さな遊園地に有名な観覧車がある。4日後のメーデーに控えた開業を待たず退避しなければならなかった住民の気持ちはどんなものだっただろうか。
街のところどころで、旧ソ連のプロパガンダを偲ぶことができる。薄汚れた旧ソ連の星マークや政治家のポスターは当時を生々しく映し出している。ガイド曰く、キエフなどの都市では旧ソ連の面影は急激に失われており、皮肉なことにチェルノブイリ一体は数少ない遺産でもあるという。
それにしてもなんという矛盾だろうか。原発事故で放射線を浴びた緑の森は赤や黄色に変色し、科学者たちを驚愕させた。ところが、事故後、立ち入り制限地区は自然の回復が著しいそうだ。廃墟が森に侵食されているだけでなく、地域一帯が野生動物の宝庫になっているというのだ。原発事故はまさに人間と自然の両方において、その存在と価値を再考させられる最高の道徳書だったといえるかもしれない。
最後の関門
最後にチェルノブイリの雑貨店に寄った。現地の労働者たちが利用するという。小さいながらも、ここでは日用品がなんでも揃う地域のオアシスだ。
長い一日を終え検問所に戻ると、最終検査が待っていた。検査は二段階。一回目は放射線測量の基準が緩く、二回目は厳しいらしい。同時に行きに渡された検査器を返却し検査する。検査装置は旧ソ連を思わせる古めかしく重々しい器具。方法自体は両手両足を検査器に触れて数秒待つだけ。問題がなければ、回転式ゲートが自動的に開く仕組みだ。ガイドにもし検査に引っかかったらどうするのかと聞くと、過去2年間で引っかかった観光客はいないと安心させてくれた。ただ、同僚のガイドがひっかかったそうだ。病院に行くことはないが、大量の手続き書類が待っていたらしい。
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