取材・文・写真/小坂眞吾(『サライ』編集長)

「マカオに行ってきました」というと、必ず帰ってくる反応が「カジノですか?」というものだ。確かに、マカオのカジノの年間売上はラスベガスの7倍。世界一のカジノ集積地と言える。でもそのせいで、大切なものが見過ごされている。日本の扉が世界に向かって開かれた、16世紀の記憶だ。

たとえカジノがなくても、日本人にとってのマカオの魅力はいささかも減じない。大航海時代と、日本の戦国時代を念頭に、マカオを旅してきた。その模様を2回にわたってご紹介しよう。

マカオを象徴する聖ポール大聖堂跡のファサード。

ザビエルはマカオでも有名人だった

マカオを訪ねるのはじつは今回が初めてだ。しかも10年ぶりの海外で、パスポートも新調しなくてはならなかった。日本国外の人になる、というのはかなり緊張する。心配事も多いが、マカオ入境は意外なほどあっけなかった。

マカオ直行便は、成田と関空から1日1便、福岡からは月・水・金の週3便出ている。成田からフライト約5時間。空港に着いてから入境までわずか約15分。荷物を預けていなかったこともあるが、沖縄に飛ぶのとたいして変わらない感覚だ。マカオは大田区の半分ていどの面積だから、空港からホテルまでもごく近い。

日本との時差はたった1時間で、時差ボケの心配も全くない。直行便の場合、マカオ着は夜となるが、マカオは不夜城。揚げ雲呑をつまみに青島ビールをいただき、就寝。

なお、マカオでは日本語メニューのある店は多くなく、料理写真もないのが普通なので、どんな料理かは漢字から類推する。中華系の場合、「炸」は「揚げる」、「湯」が「スープ」。同じ「雲呑」でも「炸」が付けばスープなしの揚げ雲呑となる。私はこの法則を知らず、雲呑スープを頼んだつもりが揚げ雲呑だったのだ。ま、美味しかったからいいけど。

翌朝訪れたのは、珠江河口のマカオ半島と3本の橋でつながる島の南端。コロアン地区にある「聖フランシスコ・ザビエル教会」だ。社会科の教科書に載っていた肖像画の、風変わりな髪型が今なお記憶に残る、あのザビエルである。

クリームイエローの壁が愛らしい聖フランシスコ・ザビエル教会。「天主堂」という呼称は、世界遺産になった長崎・天草の教会と同じだ。建立は1928年。ザビエルの右腕の一部が一時期安置されていた。

ザビエルがなぜ500年後の地球の裏側の教科書に載っているかというと、日本に初めてキリスト教を伝えた宣教師だからだ。

16世紀初め、スペインのバスク地方生まれ。イグナチオ・デ・ロヨラらとともにイエズス会を創設。ポルトガル王の命を受け、世界布教の尖兵となった。1542年、喜望峰を越えてゴアに着任。1545年にマラッカへ。1549年、明の上川島(現・広東省)を経て薩摩の坊津に上陸。山口(大内氏)、大分(大友氏)で布教。中国での布教を目指して1552年、上川島に渡るが大陸には入れず病没。遺体はゴアに安置されている。

喜望峰、ゴア、マラッカ、中国、日本と、ザビエルの生涯はポルトガル商人の東方進出にぴたりと重なる。当時の南シナ海では上川島を仮泊地としていたようだが、ザビエルの死後まもなくマカオが拠点となり、のちに右腕の一部がゴアからマカオに分骨された。

中世国家vs近代国家の覇権争い

ポルトガル、及びイエズス会は、なぜ世界布教を目指したのか。

当時のヨーロッパは宗教戦争の真っ只中にあり、伝統的なローマ=カトリックは新教(プロテスタント)に信者を奪われつつあった。そこで世界に視野を広げて、一人でも多くの信者の獲得を目指したらしい。

この信者獲得競争とシンクロするように地球全土に活動範囲を広げたのが、ヨーロッパ各国の商人たちだ。布教と通商の間には密接な関係があったに違いないが、知見がないので詳しいことは書けない。

ただひとつ言えるのは、スペイン、ポルトガルの旧教国では布教と通商が不可分であったのに比べて、オランダ、イギリスなどの新教国では、布教と通商の割り切りができていたことだ。

ザビエル教会内観。机の前の「IHS」はイエズス会の紋章。後述する聖ポール天主堂跡にも刻印されている。

のちの徳川幕府はオランダにのみ、長崎での交易を許可した。最初に日本と接触したのはポルトガルだったのに、彼らは通商を禁じられ、キリスト教そのものが徹底的に弾圧された。スコセッシによって映画化された遠藤周作の『沈黙』を読んでもわかるが、16世紀後半から17世紀前半のポルトガルは、マカオから次々に宣教師を日本に送り込んだ。商人とセットで宣教師を送り込み、熱心に布教するポルトガルは、国内安定を第一とする幕府に嫌われたのだ。

一方オランダは、日本での布教活動はしないと約束して、日本との通商を取り付けた。貿易に専念するオランダは幕府には好都合だった。実際、オランダ人の行動範囲は江戸時代、長崎の人工島・出島に限定され、九州に多くいたキリシタンは神父や司祭による導きを得ることができず、迫害を受けて棄教するか、「カクレキリシタン」となるしかなかった。約250年に及ぶ苛烈な弾圧を乗り越え、幕末以降に建てられた天主堂群は今年、ユネスコ世界文化遺産に登録されている。

今年6月に世界遺産に登録された、長崎市の大浦天主堂。幕末、1865年建立のカトリック教会。キリシタン弾圧で殉教した26聖人を祀る。

利益を第一とする現代の尺度からすると、ポルトガルのやり方は理解できない。オランダのように、布教と通商を分けるのが合理的に見える。旧教国のポルトガルは、ローマ教皇を頂点とする中世的秩序に縛られざるを得なかったのだろう。

この違いこそが、ヨーロッパの中世と近現代の分水嶺ではなかろうか。大航海時代という同じ土俵の上で争っているように見えて、実は中世と近代という、時代の争いだったのではないか。その結果、スペイン、ポルトガルは没落。オランダ、イギリスという新教国家が世界の覇者となり、資本主義と軍拡の近代が幕を開けるのだ。

クリーム色の瀟洒な「天主堂」を見ながら、そんなことを考えた。

エッグタルト発祥の店

ザビエル教会を訪ねたら、ぜひ立ち寄りたいお店が『ロード・ストウズ・ベーカリー』。マカオの名物といえばエッグタルトだが、その歴史は意外に新しく、アンドリュー・ストウ氏が1989年に開いたこの店が発祥だ。

アンドリュー氏亡き後、娘さん(写真)がエッグタルトの味を守る。焼き色を濃くつけるのがアンドリューの流儀。焼きあがると右から左へ売れてしまう人気だが、あくまでも手作りにこだわり、1日2万個が限界だという。

ストウ氏はポルトガルで伝統的なお菓子「パステイス・デ・ナタ」に感動し、これをマカオに広めたいと、砂糖を減らすなどして独自のレシピを作り上げた。発祥こそ新しいが、ポルトガルにルーツを持つという意味では、極めてマカオらしいデザートだ。

サクサクのパイ生地に、濃厚なカスタードクリームを流して焼き上げ、甘さはあくまで控えめ。卵黄のコクが実に濃厚で、私のような酒飲みにもとても美味しく感じられ、2個ペロリと平らげた。

1個10パタカ(約140円)だが、6個55パタカで箱に入れてくれる。冷やせば数日は日持ちするので、帰国前日に箱で買ってホテルの冷蔵庫で冷やし、手荷物として持ち帰れば家族へのお土産にもなる。機内預けにはしないこと。また、空港の手荷物検査では問答無用に横向きにされるので、あらかじめ「横向きにするな」と言った方がいい。もっとも、広東語でどう言うのかは不明。私は手振りで「ノーノー、タテ、タテ」とやってなんとか通じた。

ロード・ストウズ・ベーカリーのエッグタルトをいただく至福の時。濃厚で美味い。

もう一つ、このコロアン地区で行きたいのが『マカオパンダ館』だ。上野動物園のシャンシャンを見るのは大変だが、ここでは2016年に生まれた双子のパンダをまるまる1時間眺めていられる。しかも入場料は10パタカ(約140円)。エッグタルト1個分だ。

双子らしくいつも一緒にいて、笹を食べる仕草もシンクロしている。撮影には35ミリ判換算で200mmくらいの望遠レンズがあるといい。毛並みまでリアルに、インスタ映えする写真が撮れる。

『石排湾郊野公園 澳門大熊猫館』(マカオパンダ館)の双子のパンダ。じっくり観察してわかったのだが、笹の葉や皮はかじって捨てている。芯の柔らかい部分だけを食べているのだ。日本ではネマガリダケの小さなタケノコが珍重されるが、それに通じる感覚なのかも。

いよいよ世界遺産密集地帯へ

マカオでの移動の足は断然、路線バスがいい。運行本数も多く、行き先は番号でわかるので、初めてでも安心だ。少々混み合うのが難点だが、運賃はどこまで乗っても一律6パタカの先払い。100円以下である。

離島の南端のコロアン地区からバスに乗って北上すれば、長い橋を渡ってマカオ半島に入り、目抜き通りの「新馬路」(サンマァロゥ)に至る。100年ほど前に造られた、マカオにしては幅の広い直線道路で、左右に隙間なく並ぶ建物は典型的な東西折衷様式。マカオらしさ全開だ。

新馬路からすぐ、世界遺産見物の起点となるセナド広場の石畳は、白と黒の石片で大きなウェーブを描く。ポルトガルの職人がやってきてひとつひとつ施工したものだという。

マカオでは「馬路」という表記をあちこちで見かけるが、日本で言う道路のこと。自動車のない時代、馬車が通る道だったからこう呼ぶのだろう。そういえば明治維新の横浜に造られた大通りも「馬車道」と呼ばれている。

この新馬路の北側に、ポルトガル統治時代の建築が密集する。マカオの歴史を知る上で欠かせないエリアだ。西洋と東洋のエネルギーがぶつかり合い、複雑に入り混じって生まれた22の建築物と8つの広場が2005年、ユネスコの世界文化遺産に登録された。

海老雲呑麺が名物の『黄枝記』セナド広場支店。

芝海老くらいのプリプリの海老雲呑が4つ入って42パタカ(約600円)。博多ラーメンもビックリの超極細麺。丼から海老の香りがこれでもかと立ち上る。昼時は行列必至。徒歩圏内の「十月初五日街」に本店があり、こちらは同じ海老雲呑麺が34パタカ。地元の人が多く、支店に比べれば空いている。

中央に噴水のあるセナド広場を起点に散策開始。徒歩圏内に見どころは多いが、ここでは世界遺産のひとつ、聖ポール天主堂跡をご紹介したい。

1640年、イエズス会により完成。石造りのファサード(建物前面の壁)と木造の堂宇を持ち、東洋でもっとも壮麗な教会だったという。1835年の火災で木造部分は焼失し、ファサードと階段のみが今日に伝わる。

マカオを象徴する聖ポール大聖堂跡のファサード(再掲)

このファサードに施された彫刻が面白い。中央のマリア像の下に4人の聖人が並ぶが、右からふたりめが聖フランシスコ・ザビエル。その左がイグナチオ・デ・ロヨラである。

ロヨラはイエズス会の初代総長。軍人出身で、イエズス会に軍隊の規律を適用し、ローマ教皇の命に従い世界の果てまで布教することを会の目的とした。自身はヨーロッパに留まり、1556年に没するが、その後もイエズス会は、マカオから日本に次々と宣教師を送り込んだ。日本のキリスト教を語る上で欠かせない人物である。

聖フランシスコ・ザビエル像。死後70年を経て、ロヨラとともに聖人に列せられた。

聖イグナチオ・デ・ロヨラ像。上長への絶対服従という軍隊の規律でイエズス会を組織した。

ロヨラ像の斜め上には、矢が刺さった悪魔が彫られ、その横にタテ書きで漢文が刻まれている。「鬼是誘人為悪」。この鬼は人を誘惑して悪事を働く、の意か。
このファサードの彫刻には、日本の職人が関わったという説が有力だ。

悪魔の横にタテ書きで「鬼是誘人為悪」。

徳川幕府は1612年、直轄地におけるキリスト教会の破却と布教の禁止を発令。翌年には全国に「バテレン追放令」を発する。この弾圧によりキリシタン大名はいなくなり、宣教師はマカオやマニラに脱出。最後まで棄教しなかった高山右近も国外追放となった。

庶民の中にも右近同様、棄教せず国外に出た人々が相当数いたらしい。聖ポール天主堂跡の近くには、故郷を追われた日本人300人あまりが暮らしたといい、彼らが天主堂建設に関わっていたとしても不思議はないだろう。

右近は信長、秀吉の信任厚い武将だったが、晩年には領地の全てをなげうって信仰の道を歩んだ。庶民のキリシタンたちも、長年住み慣れた故郷を捨ててマカオへ移り住んだ。

彼らにとっては、信じることこそ、生きることだったのだ。

聖ポール天主堂跡の裏手には地下納骨堂があり、日本で殉教した宣教師、武士、庶民の名が貴賤の区別なく銘板に刻まれている。

江戸初期に日本で殉教した人々の記録。地下納骨堂にて。

マカオにも縄文人がいた?

天主堂跡見物のついでに立ち寄りたいのがマカオ博物館だ。マカオの歴史を概観できる。当たり前だが、マカオにはポルトガル人の来航以前から人が住んでいたわけで、考古学的証拠としては紀元前2000年の土器片が発掘・展示されている。

その土器片を見て驚いた。植物繊維で編んだ縄の跡が、びっしりと刻印されている。こりゃ日本の縄文土器と同じではないか。説明文にも中国語で「縄紋陶器」とある。マカオ(というか珠江河口)の先住民は漁撈採集生活を送っていたようで、その点でも縄文人と一致する。

縄文人がどこから来たのか、諸説あって結論は出ていないが、この土器片を見る限り、南シナ海と日本列島が共通の文明圏に属していたと考えるのが自然だろう。

マカオ博物館。説明文は中国語と英語のみで日本語がないのが残念だが、それでも歴史好きなら立ち寄る価値はある。

もうひとつ、博物館で見ておきたいのがグーテンベルク式の活版印刷機(複製)だ。

1582年、九州の4人の少年がローマへ向けて出航した。いわゆる「天正遣欧少年使節団」である。日本で布教していたイエズス会神父が、東洋での布教の成果を報告するために企画したもので、長崎からマカオ、マラッカ、ゴア等を経て2年後にリスボンへ入港。ヨーロッパ各地で熱狂的に歓迎され、ローマ教皇に謁見してローマ市民権を得る。

1590年、ヨーロッパから多くの文物を持って長崎へ戻るが、その際もマカオに立ち寄り、伝えたのが活版印刷機だった。

江戸時代、西洋に開かれた窓は長崎だったと私たちは教わってきたが、長崎の向こうにはマカオがあった。イエズス会宣教師はマカオからやって来たし、少年使節も往復にマカオを経由している。棄教を拒否したキリシタンもマカオに移住した。戦国から江戸初期の日本の歴史は、マカオ抜きには語れないのではなかろうか。

マカオ博物館の出口は丘の上にあり、薄暗い博物館から出るといきなり開放感に満たされる。マカオ半島を一望できるこの場所は、かつて「モンテの砦」と呼ばれた要塞だった。南シナ海はスペイン、ポルトガルの旧教国とイギリス、オランダの新教国がしのぎを削る無法地帯。ポルトガルはこの丘に大砲を据えて、英蘭の艦船の侵入に備えた。

復元された22門の大砲は、口径26.7cm。大航海時代の南シナ海に思いを馳せるのに十分な迫力である。

モンテの砦に復元展示されている大砲。射程は約2km。遠方に見えるビル群のあたりが当時の海。1622年にオランダ艦隊がマカオ侵略を試みた際には、この大砲で撃退している。

……ということで、今回はマカオの街を歩きつつ、マカオにおける東西文明の融合を歴史と建築から見てきたが、では食べ物の方はどうなっているのか? 次回は知られざるマカオ料理の旨し世界を中心に、引き続きマカオの魅力についてご紹介しましょう。>>後編に続く!

※あわせて拙稿「知ればもっと楽しめる!マカオ旅行に行く前に知っておきたい歴史的背景」のほうもぜひご覧ください。

取材・文・写真/小坂眞吾(『サライ』編集長)

 

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