文/鈴木拓也

最近は本当に、生涯現役の元気なシニアが増えた。
統計で見ても、60代後半の男性の場合、その半数以上が働いている。「生活のために仕方なく」という人もいるかもしれないが、働ける体力のあるシニアの数は、昔日の比ではない。
1932年に大阪で生まれ、今は都内で暮らす永山隆一さんもその1人。医師として診療所を営み、ラガーマンとしてボールを追う日々を送る永山さんは、一昔前までの90代のイメージとはかけ離れている。
そんな永山さんのこれまでの生涯をたどった書籍が、『92歳のラガーマン ノーサイドの日まで』(主婦の友社 https://books.shufunotomo.co.jp/book/b10107132.html)だ。
「ラグビー場で死ねるなら本望」とまで言う、永山さんの長寿の秘訣はなんだろうか? 本書より、そのヒントを紹介したい。
多忙な日々の合間を縫ってラグビーに熱中
永山さんがラグビーに目覚めたのは、小学校に入学するよりも前のこと。医師である父親が、京都大学に在籍していた昭和初期は、ラグビー部がとても強く、「京大ラガーたちは、ラグビーのためなら命も惜しまぬ」と、自慢げに話していたのがきっかけだという。
強豪であった天王寺中学のラグビー部に入るのが目標であったが、太平洋戦争の激化で集団疎開して断念。
とはいえ、ラグビーへの情熱は冷めることはなく、東邦大学に入学した年に自身でラグビー部を立ち上げる。ポジションはフォワード。敵にぶつかってボールを奪い、それをバックスにつなぐ大事な役回りであった。
大学を卒業し、病院の外科医として多忙な日々を送る永山さんであったが、医師のラガーマンたちで結成された「ドクタークラブ」でラグビーを続行。休日になると、いそいそと練習や試合に出かけた。結婚もしたが、「もっともっとラグビーがしたい」という気持ちは衰えることを知らない。
40歳になって、 40代以降の選手のみで構成される「不惑倶楽部」に入会。背番号59番を与えられる。この番号は入会順に付けられ、現在は680番台になっているそうだ。
「不惑倶楽部」では、毎週のように試合が催され、永山さんはおよそその半分に出場した。海外遠征にも何度も行き、試合に出ない休日は、スポーツの試合会場で待機し、選手がケガをしたときなどに対応するマッチドクターをしていた。
定年後も仕事とラグビーに打ち込む
そんな永山さんにも、定年退職の日がやってくる。もっとも、60代は医師としてまだ働ける年代。縁あって、東芝府中の健康管理センター長の仕事を引き受けることになった。
東芝府中といえば、ラグビーの名門チームがある。永山さんは、休日はチームドクターとして試合に帯同するか、「不惑倶楽部」の試合に出るかで、定年前とさして変わらぬラグビー漬けの日常であった。
還暦を過ぎて、さすがに体の衰えを実感した永山さんだが、ジムに行って鍛える時間はない。その代わり、毎日の生活の中で、できるだけ意識して鍛錬を行った。
たとえば通勤のときには、できるだけ速足で歩きました。それも極力最短距離で移動します。といっても駅や歩道は目の前に人がいますから、直線では進めません。そういうときにはパッと身をかわしながらすり抜けていくようにします。敵のタックルをかわすようなイメージです。
エスカレーターも極力使いません。階段を上がるだけで足腰が鍛えられます。
お昼休みにはよくランニングをしました。(本書74~75pより)
そうやってフィジカル面のケアをしながら仕事とラグビーを両立させた永山さんは、70歳を迎える。健康管理センター長の職は辞すが、同じく医師である妻が開業した「永山クリニック」の院長として、医師としての仕事は続行した。
人からは、「まだ働くのか?」と言われることもあったという。しかし、永山さんは働けるうちは働きたいという信念を曲げない。年をとったからと無為に過ごせば、なおさら衰えていくからだ。
コロナや嚥下障害にも負けずにラグビー再開を目指す
「永山クリニック」で診療活動を続けながら、ついに90代に突入した永山さん。医師の仕事はかなり減らしつつも、ラグビーへの熱意はなおも旺盛。
しかし、コロナ禍のせいで、試合はほとんど行われなくなり、雌伏の時を余儀なくされる。しかも、コロナ禍が明けたと思った矢先の2024年1月、永山さんは新型コロナに感染。近くで暮らしていた長女から、入院を促されるも拒否する。入院すれば、トレーニングどころか歩くこともできず、ラグビーのために必要な筋力が落ちてしまうからだ。
しばらくしてコロナから回復するが、嚥下機能の障害で食べることもままならなくなってしまう。永山さんは、ラグビーを再開したい一心で、リハビリを続けた。
熱心なリハビリと長女のサポートもあって、嚥下機能は徐々に回復。刺身やビーフシチューも食べられるほどになった。リハビリのかたわら、早朝に放送されるNHKの「テレビ体操」を皮切りに、日中も3回体操に励む。
2024年10月に92歳となった永山さんの2025年の抱負は、「不惑倶楽部」の春の大会に出場すること。もちろんその後も、ラグビーを続けていくつもりだ。まさに、「ノーサイドの笛が鳴る、その時まで」と言う永山さんの姿には、誰もが元気と勇気を与えられるはずである。
(付記:この記事を書いている3月中旬、永山さんが逝去されていることを知りました。ご冥福をお祈りいたします。)
【今日の定年後の暮らしに役立つ1冊】
『92歳のラガーマン ノーサイドの日まで』

定価1870円
主婦の友社
文/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライターとなる。趣味は神社仏閣・秘境めぐりで、撮った写真をInstagram(https://www.instagram.com/happysuzuki/)に掲載している。
