「我が子は絶対に東大に入れてやる!」
帰省のたびに高卒だとバカにされ、結婚前に勤務していた証券会社を「株屋」と言われ、「昔は株屋は表玄関から入れなかったのよ」なども言われたという。当然、父親の顔を知らないことも悪く言われた。
「結婚するまで学歴のことを気にしたことがなかったのに、そこまで言われると、私も悔しくなって。結婚3年目に生まれた娘の目の光が賢そうで、“この子を絶対に東大にいれてやる”と決意しました」
当時、流行り始めた幼児教育の教室に通い、ピアノ、水泳なども習わせた。娘は瑞恵さんの期待に応えた。
「当時は、くじ引きで入学できた国立大学の附属小学校にも入れ、“教育ママゴン”になっていました。そこでもやはり、学歴はついてまわる。周囲のお母さんたちが、皆大卒なんですよ。青山学院、上智、ICU、慶應義塾、早稲田……。当時は、女性で大学に進学する人は圧倒的に少ない。その少ない人たちが、上流階級のようなものを形成し、“あなた、何年入学?”、“あの教授、まだ元気なの?”などと話し合っている。さらに学食やレクリエーションの話をしているのが、心の底から羨ましかった」
瑞恵さんの学歴コンプレックスは、娘に向かっていく。娘はそれに応えて、国立大学附属高校まで進学するが、東大を受験しなかった。それなりの成績を取っており、「ギリギリいける」というところまでいったのに、出願さえしていなかったのだ。
「それが本当に悔しくて。娘の東大入学は、18年間の私の夢だったんですよ。それなのに、私立大学にしか行けなくて。娘の3歳下に息子がいますが、この子は小さい頃からパッパラパーだったので、全然構いませんでした。高校3年の夏までサッカー部で遊んでいても、娘と同じ大学に行きました。私の努力はいったい何だったんでしょうね」
娘の東大未受験は、母への反抗もあったのだろう。娘は大学を2年で中退し、バックパッカーとして世界を放浪する。1年後に帰国し、その間に知り合った男性と同棲をした。
「男はタトゥーだらけの人で、娘はどっぷりハマっていた。うちから1時間以上かけて、狛江駅のアパートまで話し合いに行ったら、変なお香が炊いてあるボロアパートで、娘と男が風呂にも入らず布団でベッタリとくっついていたんです。すえたような汗の匂いも気持ち悪くて、すぐに退散しました」
そのときに、「もう、この子は復学しない」と思ったのだそう。娘の現状を夫に話すと「好きにさせておきな」と笑っていたという。夫の大学時代の友人にも、娘と似たような女性がいたそう。全共闘世代ど真ん中の夫は「アカ(社会主義)の活動さえしなければいいよ」と言っていた。
「大卒の余裕を見せられて、悔しいと同時に主人に惚れ直したんです。その頃、息子は大手商社に就職して、バリバリ働いていたので、“一人がダメでも、もう一人がよければいいや”と思いました。きょうだいで序列をつけてはダメだと思いながらも、差別はやめられませんでした」
娘とは音信不通になることもあった。瑞恵さんがパートに行っている時間帯に家に来て、タンス預金から5万円、10万円と抜いている形跡がある度に「生きているんだな」と思ったそう。
「人に言えないこともだいぶしたんだと思うんですよ。息子が歌舞伎町で“姉ちゃんにそっくりな人を見た”と言っていましたから」
【おそらく、夜の仕事で働いていたのではないか……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。