妻の死去後、人生の現在地を見失ってしまう
合理的思考の妻がいたから、前進と成長を続けられた。
「プライベートも満たされていたんです。27歳のときに娘が生まれ、大学まで出した。妻は出産後も仕事を続け、55歳まで働いた。私が60歳で定年をした後に、2週間のアメリカ旅行に行ったのが最高の思い出。妻とは国内外に短期の旅行をしていたのですが、ある朝、お風呂場で倒れてそれっきりに。そのとき、私は初めて人生の現在地がわからなくなったんです」
妻の死因は心筋梗塞だった。妻は40代から体重が増え、肥満と高血圧を医師から指摘されていた。
「妻が日々を全力で生き、言いたいことは何でも言う人だったので、後悔はないだろうというのが、娘と私の共通認識でした。でも妻がいなくなると、これからの人生、何をすればいいかわからなくなるんです。仕事を続けた先に、妻との旅行や食事という楽しみがあったから」
コロナ禍だったこともあり、葬式もろくにできない。フワフワした感覚のまま子会社の副社長を65歳で退職し、1年以上ゴロゴロしていたという。
「妻の遺品の片付けもできない。寝て起きては“ママ、生き返ってないかな”って隣のベッドを見る毎日。妻が隣にいることが当たり前で生きてきたから、どうにもならないんですよ」
2年前に一人娘が「一緒に住みたい」と言ってきた。娘は大学在学中から放送作家の仕事を続け、都心で一人暮らしをしていた。
「就職しないことは不安でしたが、独身でお金も稼いで六本木に住んでおり、やりがいを持って働いているから何の心配もしていなかったんです。てっきり、妻に先立たれた私のことを心配しているのかと、娘に“パパなら心配ないよ”というと、娘は“私、もうお金がないんだよね。だからそっちに住みたいの”と言いました」
寝耳に水だった。マスコミの仕事をして都心生活をしている娘から「お金がない」という言葉を聞く。男親と娘は距離がある。悟志さんは都心のカフェに赴き、娘と話した。妻の葬式以来、1年ぶりに会う娘は老けていた。「担当していた番組がどんどんなくなり、家賃が払えなくなった」と言った。また、制作会社は安く使える若手を求めている。ベテランの域になった娘はギャラが高いとみなされて、声が掛からなくなったと言い訳した。
「よく話を聞くと、娘は現在地を確認せず、仕事を断っていたんです。娘もずっとフリーランスで仕事をしてきて疲れたんだろうと思ったし、きっと男と別れたんだろうと察して、一緒に住むことにしました」
悟志さんの家は、都心から30分ほどの距離だ。都心の生活に憧れていた娘は、生まれ育ったエリアを嫌っていた。
「仕事をすっぱり辞めて、スーパーのバイトに出かけるんです。マスコミの世界で仕事することに誇りを持っていた娘が、時給で仕事をしている。しかも、その方が生き生きとしているんです」
娘の様子を観察していて、時給で働く仕事は、言われた役割を果たす緊張感と気やすさがあることに気づいた。そして娘も「パパも働きな! すごい太ったし、このままでは認知症になる!」と毎日のように言ってきた。
「言い出したら聞かないのは、妻と同じ。半年くらい“働け”と言われ続け、体力的に無理だというと、“今はこういうものがある”と隙間時間に働くアプリを入れられたんです」
【かつて接待で使っていた店で、皿洗いをすることに……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)、『沼にはまる人々』(ポプラ社)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などにも寄稿している。