息子は会社を退職してしまった

夫は気力も体力も落ち、自信を喪失している。息子の言いなりになってしまうと危惧した美佐子さんは、息子に店を継ぐのはやめるように説得をする。

「私が言うほどに意固地になり、とうとう、先日、会社を辞めてしまったんです。たいして仕事もしないうちの息子に、手取りで30万円も払ってくれていたいい会社なのにね。もったいない!」

反対はしていたものの、会社を辞める覚悟で、店を継ごうとした息子に真剣みを感じたという。8月末に会社を辞めるという息子のために、美佐子さん夫妻は、知り合いの飲食店に頭を下げて、9月1日から修行先を確保した。飲食店未経験の息子のために、せめてものはなむけだったという。

「息子はほとんど料理をしたことがない。その訓練をしなければ立ちいかないと思いました。といっても息子は手先が器用だから、1か月も叩き込んでもらえば、何とかなる。それに、料理は仕入れが肝心なんです。そういう勘所や、仕入れ先とのお付き合いや値段交渉は、自分で覚えるしかないので、私たちの知っている中でも、最も息子の性格に適した店に無理を言ってお願いしたんです」

しかし、息子は「俺はああいうところじゃなくて、スペインバルみたいなジビエ屋をやりたいんだよね」と、バスク地方に旅行に行ってしまったという。

「住み込みで働くとか、厨房にいれていただくかと思ったら、普通の観光旅行だと言うんです。それに情けないやら、悲しいやら。さらに息子の留守中に彼女とやらが来て、ウチのビルに住むという。慌てて息子に電話したら“言ってなかったっけ?”と。この彼女というのが、38歳と息子より年上なのですが、幼いし天真爛漫でつかみどころがない。今後、女将さんになるのだから、店に出そうとしたら“あーしは、仕入れ方面っちゅうか、材料調達部隊なんで”と猟に出かけてしまった。今は北海道で鹿を撃っているそうです」

息子からは店を継ぐのだから改装費を出してほしい、空いている部屋に住ませてほしいけれど光熱費はしばらく勘弁してほしいなど、身勝手なことを言われているという。

「息子を叱ると、“ママが大学に行ってほしいと言うから、店を継がずに我慢してあげた。これからは好きにさせてほしい”と反論される。かつては拳骨を振るっていた夫も、糖尿病が悪化し、視力が落ち、人工透析も視野に入っている。うちはバブル期に建て替えた鉄筋の飲食店兼住居ビルで、どんなに節約しても電気・ガス・水道代が30万円ほどかかっています。このままだと、老後貧困になるのは間違いないんです」

そして、息子の商売の勝算は一切ない。そもそも、この街でジビエは売れない。

「ももんじ(獣肉)などを出したら、数少ないご近所の客もはなれてしまう」と嘆く。安易な息子は、同級生などを客として呼び、開店御祝儀バブルが終われば、誰も来なくなるのは目に見えている。そもそも、覚悟がない人が、店を運営したところでうまくいかないのは我が身の経験からよくわかっている。

「何とかしたいと朝ご飯用のおにぎりを作って、店頭販売をしてみましたが、見事に売れ残るんです。見かねた近所の人が買ってくれましたが惨めでした」

最近の物価高で祖父が残した遺産も目減りしている。そして、今や昼食に1000円を出すサラリーマンは少なくなってしまった。

美佐子さんは「もし、夫がいなければ、私は祖父の遺産を抱えて夜逃げします。私1人なら何とかなりますから」と肩を落とす。

定年退職を控えた会社員たちから、個人事業主であることをうらやましがられることも多いという。しかし、その内実は火の車だ。自分たちは逃げきれても、息子たち世代が貧困になるのは目に見えている。美佐子さんはそれが切ないという。

その状態になるのを防ぐのは、「この店にしかない何か」を作ることだという。それができたときに、美佐子さん一家の未来は変わっていくはずだ。

取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などに寄稿している。

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