「明日咲かせる花は、いま種を蒔かねばならない」
本田宗一郎(ほんだ・そういちろう)
スーパーカブから小型ジェットまで常に革新し続けた
「本田技研工業(以下ホンダとする)を創業した本田宗一郎という人は、技術者にして経営者である以前に自分なりの哲学を備えた思想の人です」
そう語るのは2冊の宗一郎の評伝を上梓した伊丹敬之さんだ。
「宗一郎は戦後すぐに1年間の人間休業宣言をします。戦後一気に叫ばれるようになった民主主義とは何か、それが分からない。だから自分が納得できるまで、とことん考えるというのです。
彼が1年間かけて得た結論は、民主主義とは自分がものを決める自由があること、人に命令されないこと、庶民みんなが主人公だということです。彼がその後の会社経営で社員と対等に議論を交わし、顧客の立場に立って開発に励み、絶えず販売店を大事にしたのはこの時の思索によるものです」
ホンダが開発した代表的な“乗り物”は小型オートバイのスーパーカブと四輪車のシビックだ。
スーパーカブ成功の秘密は高出力で燃費にすぐれ、小型で女性にも操作がしやすく、デザインにあきがこない点などがあげられる。これこそ宗一郎がいう、庶民みんなが主人公となる“乗り物”だ。世界での生産累計台数は平成29年に1億台を超えている。
スーパーカブ 昭和33年(1958)
シビック 昭和47年(1973)
カーレースへの挑戦
シビックの発売は昭和47年7月だ。この当時、車による排出ガス規制が厳しくなり、アメリカでは「マスキー法」(※米国で制定された車の排出ガス規制法律。)が制定された。ホンダは世界に先駆けてマスキー法の基準をクリアしたエンジン、CVCCを開発。翌年、そのエンジンを搭載したシビックは世界的な大ヒットとなった。
宗一郎は、カーレースに力を注いだことでもよく知られている。伊丹敬之さんは語る。
「レースの修羅場が技術を育て、チームマネージメントの基本を鍛えるからです。しかし面白いことに、宗一郎はまだレースに耐えうるクルマができていないのに、先にレースへの参加を宣言してしまう。オートバイのマン島TTレース(※英国王室属領のマン島で1907年に始まったオートバイレース。)も四輪のF1グランプリもそうでした。
彼は夢が欲しかった。夢が社員を動かすからです。『明日咲かせる花は、いま種を蒔(ま)いておかなければならない』それが彼の企業経営の根本だったのです」
伊丹さんは「企業としてのホンダの素晴らしさは、創業者が退職した後に大きく成長を続けたことです」という。宗一郎が蒔いた種は着実に育っていったのだ。
ホンダでは昭和61年(1986)から航空機の研究に着手した。「自由な移動を空に届けたい」という挑戦だ。平成27年に販売を開始。令和3年には累計200機目の納入を終えている。
宗一郎は小学校3年の頃、浜松の練兵場で初めて飛行機を見て感激した。戦後わが国はGHQ(連合国軍総司令部)より飛行機の製造が禁止された。それがなければ、宗一郎も飛行機エンジンに挑戦したのかもしれない。
ホンダジェット 平成27年(2015)
解説 伊丹敬之さん(国際大学学長、一橋大学名誉教授・77歳)
写真提供/本田技研工業
※この記事は『サライ』本誌2022年12月号より転載しました。