仕事に夢中になるのは、女の幸せではない
2人は短大に進学する。当時はバブル期で、紫乃さんはその美貌を生かし、コンパニオンなどの仕事をする。
「ワンレン・ボディコンの典型的な女子大生でしたからね。イベントに行って立っているだけで、1日5~10万円を稼いだこともありました。地上げ屋のお兄さんたちが、大声で“あそこの土地を買った、こっちの土地を売った”などと騒いでいた時代です。ウチの親も6畳しかないワンルームマンションを投資用に購入し、転売して儲けていました」
紫乃さんは千鶴子さんが不要になった。なぜなら、どこかに行きたければ、アッシー君がドイツ車に乗ってやってくる。ご飯が食べたければメッシー君がイタリアンレストランに連れて行ってくれる。欲しいものがあればミツグ君がやって来るという時代だ。
「就職も簡単で、親のコネで入った商社では“OL”生活を謳歌。ジュリアナ東京などディスコに行き、お立ち台で扇子を振り回していた。そして、当時は25歳くらいで結婚するのがスタンダードだった。私はまさにその年に商社に勤務する夫と結婚し、寿退社をしました」
その間、千鶴子さんのことはすっかり忘れていたが、有名な会社に入ったという噂は耳に入って来た。2人が再会したのは、32歳のとき。
「銀座の三越の前でバッタリ会ったんです。とても暑い日だったので、近くの喫茶店に入った。相変わらず冴えない服を着ており、聞けば彼女は我が道を歩き続けたみたいで、短大から4大に編入し、経済を学んで海外の映画配給会社に就職したといっていました。“好きなことをやり続けただけ”って言っていました。左手薬指には指輪がなく、確認すると独身だった。当時は“女の幸せは子供を産むこと”だったんですよ。だから、私は“30歳までに2人の息子を産み切ったのよ”と誇らしく言ったことを覚えています」
それに対して千鶴子さんは、「へえ、私は仕事が好きだから、仕事だけ」と言う。恋人の存在を聞くと「相手がいないもの」と。
「そして“紫乃が好きだったのよ”と告白された。高校時代に手をつないだ記憶がよみがえったんです。再会した時には携帯電話も普及しており“また連絡を取り合いましょ”と別れたんです」
【気が付けば、差は縮められないほど開いていた……その2に続きます】
取材・文/沢木文
1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)、『週刊朝日』(朝日新聞出版)などに寄稿している。