【サライ・インタビュー】
浜村 淳さん
(はまむら・じゅん、パーソナリティ、映画評論家)
――ラジオ番組『ありがとう浜村淳です』(毎日放送)が放送46年目――
「すべてのご縁をいただいた方に感謝の気持ちを込めて放送しています」
※この記事は『サライ』本誌2019年10月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)
──朝のラジオ番組が45年超の長寿番組です。
「大阪の毎日放送で、日曜を除く毎朝8時から放送している『ありがとう浜村淳です』が、この4月で放送開始から45年が経ち、46年目に入りました。始めた頃のラジオは深夜放送全盛の時代で、私も夜の番組をやってましたから最初は“朝早いのは嫌や”ってお断りしたんです。そしたら“あんたの寝てる枕元にマイクを置くからやってくれ”と言われまして(笑)。ですから初めは1年か2年の約束で、こんなに続くはずではなかったんです」
──長く続けられた原動力は。
「替わる人がいないんです、朝が早くて(笑)。4時50分に起きて、6時には放送局へ入る毎日ですから。もう1年もう1年、と言われているうちに45年が経ってしまいました。
あとは、楽しみながらやろうという姿勢でしょうか。番組のコンセプト(主旨)は、“面白くてためになる”なんです。聞いてわかりやすく、面白くて役に立つ。“聞いてよかったな”と思ってもらえる番組づくりをしよう、肩肘はって堅苦しくやらないようにしようと。それがよかったんでしょうね」
──力まず肩の力を抜いて続けてきた。
「努力というとちょっと大袈裟ですけど、準備はいろいろ大変です。番組のオープニングから1時間くらいはその日の新聞より政治経済、芸能、スポーツ、海外のニュースまで自分なりの言葉でお話をさせてもらうんで、局でさまざまな新聞に目を通して記事を選び、構成を考えます。放送作家はいませんからね。でも、そういう陰で気張ってる様子は表に出さないで、あくまで楽しく、気楽な雰囲気でやっていこう。そういう方針で最初からやってきました。
始めた当初は、テレビで深夜の生放送番組『11PM(イレブンピーエム)』にも出演していました。番組が終わると司会進行役で作家の藤本義一さんが“よし、飲みに行こうか”と、明け方まで飲んで、そのあと朝8時からこのラジオ放送に出るなんて無茶もしました。まだ30代で若かったですからね。今はもう無理です。夜10時半頃には就寝するようにしています。宴会があっても二次会はお断りしてます」
──番組名に「ありがとう」とつけた思いは。
「お聞きいただいている皆さんへ、番組からいろんなプレゼントをお送りすることがあるんですが、私はそのとき1枚の挨拶文を入れています。そこには『かがやく陽ざしにありがとう、そよ吹く風にありがとう、さえずる小鳥にありがとう、流れる水にありがとう、今日のあなたにありがとう』、そんな言葉を書いているんです。すべてに感謝の気持ちを込めてやりましょう、そういう思いを込めて『ありがとう』というタイトルを番組名につけたんですが、よかったと思います。響きもやわらかいですしね」
──生まれも育ちも京都です。
「昭和10年に京都市の北区、鷹峯(たかがみね)というところで生まれました。そこは時代劇のロケの本場で、毎日のように撮影があったんです。嵐寛寿郎とか阪東妻三郎といった大スターがやって来て、子供たち皆で見ておりました。映画が公開されると映画館へ観に行き、“川勝さんの家が映ってた”とか“杉原さんの家が映ってた”とか、そんなことを言って喜んでたんですね。これが、のちに私が映画評論の仕事をする原点かもしれません。近所には、新撰組の隊士を直に知っている80過ぎのお婆ちゃんもおりましたね」
──さすが千年の古都です。
「そのお婆ちゃんは、私ら子供が集まってくると、ぽつりぽつりと沖田総司の話なんかをしてくれるんです。“沖田はんはな、新撰組一番の剣の使い手どしたんや。せやけどお子さんと遊ぶのがお好きどして、いつもうちらを集めて石蹴けり、かくれんぼ、鬼ごっこやってはったんどすえ”って、よう話してましたね。“西本願寺の銀杏の葉が、沈む夕日に黄金色に染まる頃な、さいなら沖田はん、また明日あそびましょうと言って別れていったんやで”と。こういう幻想的な話は心に残るもんですね、今でも明瞭に覚えてます」
──解説や司会の仕事を始めたきっかけは。
「大学時代に放送部へ入りましてね。当時はジャズ喫茶が盛んで、京都の四条河原町に生バンドが演奏する『ベラミ』というお店がありました。そこで学生アルバイトとしてジャズと映画の解説を喋っているうちに、放送局からぼちぼち出演を頼まれるようになりましてね。そのままずるずるとこの道に入ってしまったんです」
「先輩方の喋りに学んで自分で工夫。演歌の司会は無声映画の活弁から」
──どなたか、喋りの先生はいたのですか。
「直接に指導をしてくれる師匠、先生と呼べる人がいないもんですから、自分で工夫して喋っておりました。当時はもっぱらラジオを聞いていましたが、そこからいろんな先輩方の喋りを学んだんです。NHKアナウンサーの宮田輝さん、高橋圭三さん、漫談でいうと大阪に西条凡児さんという人がおりました。東京では徳川夢声さんという名人がおりました。そういう人がラジオで喋る話を片っ端から録音し、繰り返し聞いて勉強しました」
──『ベラミ』で印象に残るお仕事は。
「淡谷のり子さんの歌の司会をしたことが思い出深いですね。淡谷さんは『別れのブルース』や『雨のブルース』といったヒット曲を歌っていましたが、出番前に楽屋をお訪ねすると“これを最初にレコードにしたとき、軍部からとても嫌われたのよ。こんな頽廃的な歌は戦意を喪失させるって”と淡谷さんが言うんです。ところが、戦場で戦ってる兵隊さんを慰問にいくと大いに受け、歌を聴いて覚えた兵隊さんたちが日本に帰国して流行らせてくれたんだと。そんな話を聞きましてね。それで、いよいよ淡谷さんがステージで歌う前にそのエピソードを喋ったんです。そして“さあ、それでは、聴いていただきます、淡谷のり子さんの『別れのブルース』です”と言うと、お客さんがもう身を乗り出して待っているんです。ステージを終えた淡谷さんが大変に喜ばれましてね。“これでジャズの本でも買ってもっと勉強しなさい”と、当時のお金で1000円くれたんです」
──東京へも進出されました。
「『ベラミ』と提携していた渡辺プロが呼んでくれまして、東京に5~6年ほどおりました。今思うと、東京でやるという緊張感があってのびのびやれなかった気がしますが、貴重な体験でした。ザ・ピーナッツの全盛期と重なり、渡辺社長の家で一緒に住んでいたことがあります。事務所の隣が落語の東宝名人会をやっていた東宝演芸場で、八代目桂文楽師匠の噺をしょっちゅう聴いてました」
──落語の世界とも縁があった。
「桂米朝さんから“来ないか”と熱心に誘われたことがありました。米朝さんほどの人でも、そのころ弟子はひとりだけで、小米、のちの桂枝雀さんでした。“米朝の弟子でモウチョウはどうか”と言われましたが、“そんな名前、要りません”とお断りしたんですけど(笑)。その後もずっとお付き合いは続き、いろいろな芸の話を聞かせていただきました。忘れられない先輩のひとりです」
──演歌の曲紹介の名調子も独学ですか。
「演歌のイントロ(導入部)にのせて七五調で曲を紹介する原形をつくったのは、無声映画の活動弁士だった西村小楽天さんという人なんです。無声映画は音のない映像が流れ、活動弁士がストーリーを説明しましたが、その説明を七五調でやると名調子に聞こえるというんで、100人のうち99人までが七五調でやっていました。京都は戦後になってもときどき無声映画の上映会をしていまして、私もよく観に行ってたんです。
この活弁の七五調を歌謡曲の世界に持ち込だのが西村小楽天さんなんです。美空ひばりさんのお母さんが若いころ小楽天さんの大ファンで、ひばりさんが歌うようになると、“うちの娘の司会をやってもらえませんか”と頼みにきた。小楽天さんは歌の司会なんかやったことがない。しかし“待てよ、あの活弁の七五調を歌謡曲の世界に持ち込んだらどうやろか”と考えたそうです」
──で、実際にやってみたら評判がよかった。
「それから、歌謡曲、特に演歌の紹介は七五調でやるというひとつの形ができあがったわけです。私もこれを継承したというわけです」
「テレビは印象のメディア、ラジオは説得のメディアです」
──七五調は日本人の胸に心地よくしみる。
「演歌のイントロって長いんです。だいたい30秒ほどありますので、充分に語りをつけることができます。例えば都はるみさんの『大阪しぐれ』を“雨が降ってる新地の夜は、女ひとりにゃ辛すぎる。思い出ゆえに恋ゆえに、夢も濡れます大阪しぐれ”とイントロにのせて節をつけるように喋りますでしょ。そうすると、お客さんが『大阪しぐれ』を“聴こう”という気持ちになってくれるんです。はるみさんからも“歌いやすい”と言われました」
──テレビとラジオの違いはなんでしょうか。
「テレビというのは印象のメディアです。パッとひと目で見てすべてを理解する。例えば商品の紹介でも、この商品はこういうもんです、といちいち説明しなくても映すとわかってもらえる。それに対してラジオは説得のメディアなんです。だから、聞いてる皆さんへ、これはこういう商品で、これを使いますと非常にあなたのプラスになりますよと説得していく。いっとき、ある百貨店からテレビと私のラジオ番組で、同時に同じ商品を宣伝してくれと頼まれたことがありました。ところがね、テレビよりラジオの方が売り上げが大きかった。テレビは画面に映しますから映像は綺麗だしわかりやすい。でも、ラジオは商品が見えないぶん、喋って喋って喋り抜くわけですから、説得力が強かったんだと思います。その代わり、心を込めて喋らないといけません。上っ面だけじゃ駄目なんです。
今はテレビやインターネットの時代で、ラジオは不要という説もありますが、私は滅びないと思う。NHKの『ラジオ深夜便』が受けてるのは、聞いてる人の心の奥底に寄り添っている、それがラジオなんだと思います」
──浜村さんの映画解説も支持されています。
「映画の解説では、私はテーマは何なのかということを特にお話しします。この映画のテーマはここにあります、ここは本当に泣きますよ、笑いますよ、そこをわかってくださいと。その根本にはやっぱり説得がありますね。でも、浜村は映画の結末まで全部喋ってしまうというのは嘘ですよ。誰かが広めた“都市伝説”みたいなものです」(笑)
──今後の目標は放送50周年ですか。
「そのときは90歳が目前なわけで、なかなか簡単ではないと思います。近頃は新聞やラジオで芸能界の訃報を聞くたびにドキッとします。でも、一方で京マチ子さんが亡くなられたのは95歳、ドリス・デイが97歳ですからね。あながち不可能ではないのかもしれません。この番組をやってること自体が楽しみですし、健康法のひとつになっていると思います。
じつは、50周年のゲストを誰にしようかと、秘かに交渉してるんですよ。駄目元で、私と同い年のアラン・ドロンを招待しようかと思っています。面識はあるんですよ」
──自身の最期について思うところは。
「長患いせず、いよいよ危ないというときまで放送に出て、できたらマイクを通じて放送を聞いていらっしゃる皆さんへ、“では、皆さん、これで、はい、さようなら”と自分で告げて去っていきたい。すべてのご縁をいただいた方に“ありがとう”という感謝の気持ちを込めて、ラジオ放送でお別れを告げる。それができたら最高ですね」
浜村 淳(はまむら・じゅん)昭和10年、京都生まれ。同志社大学文学部卒業。大学在学中から司会の仕事を始め、味わい深く柔らかな語り口と豊富な話題で人気者となり、ラジオ、テレビを中心に幅広く活躍。日本芸能や文化・歴史にも造詣が深く、和歌山大学講師として日本芸能史の講座を担当した。著書に『京都人も知らない京都のいい話』『浜村淳のお話大好き』『淳ちゃんの名作映画をありがとう』など多数。
※この記事は『サライ』本誌2019年10月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/宮地 工)