【サライ・インタビュー】

奥本大三郎さん
(おくもと・だいさぶろう、作家、ファーブル昆虫館「虫の詩人の館」館長)

――『ファーブル昆虫記』を完訳。虫の視点で文明を観察――

「研究成果は楽しい読み物で社会に伝える。ファーブルのおかげでそう決意しました」

ファーブル昆虫館「虫の詩人の館やかた」(※東京都文京区千駄木5-46-6 電話:03・5815・6464(開館時のみ)、開館:土曜・日曜の13時〜17時、入場料:無料)ではファーブルの生家を再現。同時代の家財道具も展示。奥本さんが着用している帽子とコートもファーブル愛用のものと同じ。

ファーブル昆虫館「虫の詩人の館やかた」(※東京都文京区千駄木5-46-6 電話:03・5815・6464(開館時のみ)、開館:土曜・日曜の13時〜17時、入場料:無料)ではファーブルの生家を再現。同時代の家財道具も展示。奥本さんが着用している帽子とコートもファーブル愛用のものと同じ。

※この記事は『サライ』本誌2019年8月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/鹿熊 勤 撮影/宮地 工)

──虫が苦手だという若者が増えました。

「増えましたねえ。大半がそうじゃないでしょうか。今は虫が好きだなんていうと学校でいじめられることさえあるそうです。もはや変人扱いですね(笑)。以前、東京の古書店街の神保町を歩いていたときです。宝くじの宣伝をしている女の子がいたんですよ。笑顔でビラを配っていたんですが、突然キャーと叫んでしゃがみこんだ。なにごとが起きたのかと思ったら、帽子に赤トンボが止まったんです。“君のほうが気持ち悪いよ”と言いたかった」(笑)

──なぜ今、虫はこうも嫌われるのでしょう。

「ゴキブリ、ハエ、ハチ、毛虫。そういう衛生害虫や危険害虫と、トンボ、チョウ、カブトムシのような遊びの対象となる虫は、我々が子供の頃は本能的に見分けたものです。しかし、今はその本能的なものが失われてしまった。“とにかくぞっとする”“どれも気持ちが悪い”と虫をそもそも見ていない。

平安時代の『堤中納言物語』に、虫愛づる姫君という話が出てきます。ある貴族に美しい娘がいた。当時のおしゃれだった眉の手入れやお歯黒に関心がなく、イモムシ、毛虫のような虫を飼って楽しんでいる。奇矯な振る舞いを忠告する周囲に彼女はこんな意味のことを言います。“この毛虫が、皆さんが美しいともてはやすチョウになるのですよ”、と」

──価値観の本質を突くような話ですね。

「確かに、昔も虫の苦手な人はいたでしょう。でも、現代人の虫嫌いはもはや同調圧力というか、集団ヒステリーの域にあります。病的な潔癖症と言ってもいい。潔癖さは精密工業のような分野では優れた力を引き出しますが、多様性のような考え方とは相容いれないのです。

最近の虫アレルギーは、戦後社会の価値観の投影だと思います。例えば人間が食料を依存している農業の世界。花を訪れて受粉を助けたり、害虫を捕食してくれている虫もたくさんいるのに、虫は人の生活に悪影響を及ぼす存在でしかないとばかりに、農薬で駆逐してしまう。今は日本中どこへ行っても虫が減っています。土壌微生物のレベルから生態系が崩れ始めているのだと思います」

──ここ「虫の詩人の館」ではどんな仕事を。

「館長職を拝命しています。自宅を建て替えて開館し、自分で拝命しました。おかげでお金の心配ばかりです(笑)。虫の詩人の館には3つの役割があります。ひとつは子供たちが虫と遊ぶことを通じ、自然全体の仕組みについて理解を深める機会をつくる。つまり虫嫌いな日本人をこれ以上増やさないための活動です(笑)。採集、標本づくり、飼育などの教室を、昆虫好きの仲間と開いています。

もうひとつが昆虫標本の保管です。日本では民間にも貴重な標本があるのですが、個人所有のものは様々な理由で管理が難しくなっています。そういう友人の“断捨離標本”を半永久的に保存できる収蔵庫を設けています」

貴重な標本を管理する収蔵庫には3000箱の標本箱が入る。「作家の北杜夫さんが集められた標本も生前からお預かりしています」

貴重な標本を管理する収蔵庫には3000箱の標本箱が入る。「作家の北杜夫さんが集められた標本も生前からお預かりしています」

──3つ目の役割はなんでしょう。

「入口の看板に『ファーブル昆虫館』と併記していますように『ファーブル昆虫記』で知られるジャン=アンリ・ファーブルの人となりや研究姿勢を知ってもらうことです。僕は子供の頃から何度も昆虫記を読んできました。原著は全10巻。完結まで28年かかっています。

ファーブルが没して9年後の1924年には未発表作や伝記を含む『完全版・昆虫記』の刊行が始まりましたが、日本ではそれをいろいろな人が翻訳してきました。もう30年ほど前になりますが、僕がひとりで全訳することになり、2017年にやっと完結したのです」

昆虫館の竣工に合わせて建立した虫塚。「日本人は、例えば駆除した害虫などにまで想いを寄せ、このような形で鎮魂していました。これからも忘れてほしくない感性です」

昆虫館の竣工に合わせて建立した虫塚。「日本人は、例えば駆除した害虫などにまで想いを寄せ、このような形で鎮魂していました。これからも忘れてほしくない感性です」

──ゆかりの地も旅されていますね。

「翻訳しているといろいろな疑問が浮かびます。ファーブルの生地である南フランスを何度も訪れました。

ファーブル自身の生活や舞台の風土性を感じ取るため、僕は当時の生活道具から農具のようなものまで買い集めました。それらが標本や本などとともに家の中に溜まりに溜まり、歩くときは跨がないといけないほどになってしまいました。困っていたら、仲間たちが資料館を建てようと動いてくれたのです」

──昆虫記は今なお読み継がれる名作です。

「虫アレルギーの世の中にはなっていますが(笑)、日本ではその名を知らない人がいないほどファーブルは有名です。昆虫記の原題を忠実に訳すと『昆虫学的回想録・昆虫の本能と習性』になるのですが、これを明快に『昆虫記』とし、日本で初めて本格的に翻訳したのは無政府主義者の大杉栄でした」

「日本のノーベル賞受賞者の半分は幼少期にファーブルを読んでいます」

──アナキストと昆虫記。意外な関係です。

「大杉は陸軍幼年学校時代からフランス語を学び翻訳が得意でした。大杉訳の昆虫記の第1巻が叢文閣から出たのは大正11年(1922)。翌年に関東大震災が起き、彼は連行された憲兵隊司令部で変死します。続巻の翻訳は仲間によって行なわれ、昭和5年(1930)頃には岩波文庫、アルス社からも刊行されました。戦後は子供向けの昆虫記が多くの出版社から出ます。僕がいちばん好きだったのは日本野鳥の会の創設者としても知られる中西悟堂の訳です。軍国教育から一転して民主教育になった時代。子供の本には猫なで声で語りかけるような幼稚で偽善的なものが多かったのですが、中西の訳文は楽しかった」

──昆虫記が評価されてきた理由は。

「ファーブル自身の実験精神や学問に対する態度でしょう。彼が昆虫の研究を始めたのは19世紀半ばですが、それまでの昆虫学は、採集して針に刺し、形を整え、ラベルを添える標本研究でした。死んだ虫の外形を見比べる分類学だったのです。それも大切ですが、ファーブルの研究はまったく違い、生きた虫が何をしているかよく見ようというものでした。今でいう生態学や行動学です。雌に集まる雄のガの観察から、誘引は匂い物質、つまりフェロモンによって起こることを最初に示唆したのも彼です」

──影響を受けた人も多いことでしょう。

「日本のノーベル賞受賞者の半分くらいは、子供の頃によく読んだ本に昆虫記を挙げていますよ。虫採りの経験がある人も多い。これは昭和56年にノーベル化学賞を受賞した福井謙一先生の奥様からの手紙で知ったことですが、先生はあちこちに線を引いた岩波文庫版を愛読し、研究に行き詰まると、しばしばラボレームスと呟かれたとか。ラボレームスはファーブルがモットーとしていた言葉で、(気をとり直して)さあ、働こうという意味のラテン語です」

──本国でもさぞ人気なのでしょうね。

「いえ、知らない人のほうが多いのです。ヨーロッパには虫の声や姿を楽しむ文化がありません。そもそも社会が虫に関心を持っていない。宗教性の違いもあると思います。キリスト教的世界観の中では、虫のような下等な生き物には魂がないと考えられてきました。ファーブルの生きた時代にはまだそんな空気が漂っていて、虫の行動にそれほど巧妙なメカニズムがあったなど誰も想像できなかった。ですから、昆虫記に書かれていることは作り話だといわれた時代が長く続きました」

──ファーブルの本業はなんだったのですか。

「中学教師です。家に資産はなく、高学歴でもなかったので薄給。昆虫記もそれほど売れたわけではなく、暮らしは終始貧乏でした。強烈なひがみ根性の持ち主で、プライドだけは高い。パリ大学博物館の権威の意見を平気で否定したりしたので、田舎教師のくせにとバッシングを受けてきました。加えて、地面に這いつくばったり網を持ってうろついているので怪しまれ、警官に誰何されたりしています。周囲からも変人と見られていました」

──ご自身に重なるものはありますか。

「自分以外はみな変人だと思っている(笑)。そういう行動や発言は、何かに夢中になっている人間に共通するものだと思います。僕の周りの虫好きにも、多かれ少なかれ似たようなところがあります」

──どんなご家庭で育ちましたか。

「父親が大阪の貝塚市で製粉工場を経営していました。記憶にはありませんが、母親に抱えられ防空壕に逃げたこともあるというので最後の戦中派です。子供には本を惜しまず与えるのが教育方針で、家には文学全集や図鑑がたくさんありました。父親はときどき虫も採ってくれました。当時は貝塚あたりにも金緑色に輝くオオヤマトンボがいたものです。

虫採りは大好きだったのですが、幼稚園の終わり頃に股関節カリエスを発症、小学校へ入ったときには歩行困難になり外遊びができなくなってしまったのです。療養生活の楽しみといえば本を読むことだけ。そんな病床で出会ったのがファーブルでした」

4歳頃、大阪府貝塚市の自宅の庭で母親と。すでに虫好きだったが、まもなく股関節カリエスに。小学校時代の大半は療養生活。漫画雑誌や昆虫記などの本で思索の時間を楽しんだ。

「今の子供に足りないのは時間です。退屈が生む空想と観察こそ創造」

──漫画雑誌などは読みましたか。

「もちろん夢中になりました。山川惣治の『少年王者』、小松崎茂の『地球SOS』。このふたりは飛びぬけて絵がうまく憧れでしたね。遊びはもっぱら絵の模写。当時、自分は日本で一番絵がうまい子供のはずだと自惚れていました。絵を描くようになってよかったことは、対象を細部まで観察する習慣が身に付いたことですね。見たものはすぐ忘れますが描いたものは忘れないものです」

── 辛い療養生活にも、楽しみがあった。

「よく、お気の毒な少年時代でしたねといわれるのですが、そうでもありません。なぜなら時間だけはありましたから。現代の子供たちを見て強く感じることですが、幼少期にいちばん必要なのは退屈、観察、空想の3つだと思うのです。あり余るほどの時間というのは退屈なものです。そこから抜け出るには、自発的に何かを考え行動しないといけない。つまり空想を巡らせ、身の回りのなんでもないものにも眼を向け観察し、楽しみを見いだす。ボーッとしているように見えても、子供の頭の中はフルに回転しているのです」

土曜・日曜に一般開放している昆虫館には、他県からも虫好きの子供たちがやってくる。「今 は学校でも地域でも、虫の楽しさを語り合える友達がなかなかいないんですね」

土曜・日曜に一般開放している昆虫館には、他県からも虫好きの子供たちがやってくる。「今は学校でも地域でも、虫の楽しさを語り合える友達がなかなかいないんですね」

──小説との出会いはいつ頃ですか。

「本格的な出会いといえるのが中学生のときです。国語の担当に魅力的な若い女の先生がいて、ドイツ文学の作品をよく貸してくれました。淡い恋心が文学への興味のきっかけですね。その後は中国古典文学にも関心を持つようになり『金瓶梅』のような問題作とされるものまで読み漁るようになって(笑)。

中国文学者になりたかったのですけれど、昆虫学者も夢でした。憧れは昆虫図鑑も多数出された九州大学の江崎悌三先生だったのですが、先輩から、昆虫学のような理系の仕事は勤勉な人間でないと務まらないと言われました。毎日実験室に通い、液が1滴ぽとりと落ちる様子をグラフにするような毎日だというのです。その点、文学研究は寝転びながら本を読んでいてもわからない(笑)。選んだのが東大文学部の仏文科で、大学院を出てからはフランス語の教師になりました」

──軽妙なエッセイも書かれています。

「論文なんて一般の人は読みません。自分の研究知識が学界という世界にしか伝わらないのはもったいない。大学院時代に指導教官にそう漏らしたら、“君ね、研究者というのは現世への執着をもっていてはだめなんだよ”、と。僕みたいな中途半端なディレッタント( 好事家)は向いてないなと思いつつ、大学に勤務しました。その後、アルチュール・ランボーの特集に協力したのが縁で雑誌に虫のエッセイを書くようになり、それが本になると読売文学賞をいただきました。文学仲間からは論文に身を入れろと忠告されましたが、僕は本業の仏文であれ趣味の虫のことであれ、研究成果は読み物で社会に伝えていこうと決意したのです。それもファーブルの影響です」

──昆虫記は確かにわかりやすいです。

「読みやすいがゆえに、日本の昆虫学者の中には研究書としては認めないという人もいます。カメムシの孵化の様子を世界で最初に明らかにしたのはファーブルですが、彼は昆虫記を書くにあたって論文の形式を踏襲していない。つまりエッセイにすぎないので学問ではないとおっしゃるのです。個人が生涯をかけて研究したものの価値は、論文体であるかどうかで決まるものではないはずです」

──ファーブルは長寿だったそうですね。

「91歳で亡くなるまで、自由で頑固な研究姿勢を貫きました。現代は医学が進んでいるので、僕はそのぶんを上乗せして100歳くらいまで好きなことを続けたいですね。でも、2000万円足りない……」

昆虫館の植しよく栽さいには、虫が好んで集まる草木が植えられている。「種類は限られますが、都心にもまだ虫は隠れています。いないのではなく、見えていないだけ」雑誌や昆虫記などの本で思索の時間を楽しんだ。

昆虫館の植栽には、虫が好んで集まる草木が植えられている。「種類は限られますが、都心にもまだ虫は隠れています。いないのではなく、見えていないだけ」

奥本大三郎(おくもと・だいさぶろう)昭和19年、大阪府生まれ。東京大学文学部仏文科卒業、同大学院修了。ランボーやボードレール研究の傍かたわら、昆虫に関する随筆を発表。『完訳ファーブル昆虫記』(全10巻・20冊)の翻訳を30年かけ完成。平成29年、その業績により菊池寛賞受賞。NPO法人日本アンリ・ファーブル会理事長、ファーブル昆虫館「虫の詩人の館」館長。小学館より『虫の文学誌』を7月12日に発売(※古今東西の虫に関わる文学を渉猟し、虫と人の長いつきあいを知り、人間とは何かを考察するエッセイ。A5判・448ページ、3700円)。

※この記事は『サライ』本誌2019年8月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/鹿熊 勤 撮影/宮地 工

 

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