
「但馬国」と聞いて、すぐに場所と読み方が思い浮かぶでしょうか?
歴史好きにはなじみのある旧国名ですが、現在の地図では見かけないため、少し考え込んでしまうかもしれません。但馬国は、いまの兵庫県北部にあたる地域です。日本海に面し、山が多い地形を持つこの国は、古代から独自の文化を育みました。
さらに戦国時代には、織田信長、豊臣秀吉、そして秀吉の弟・秀長とも深く関わることになります。2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の時代を考える上でも、見逃せない土地の一つです。
「但馬国」は何と読む?
まずは、読み方から確認しましょう。
但馬国の読み方は……
「たじまのくに」です。
場所は、現在の兵庫県北部。東は丹波国(現在の京都府の中部と兵庫県の東部)・丹後国(現在の京都府北部)、南は播磨国(現在の兵庫県南部)、西は因幡国(現在の鳥取県東半部)に接し、北は日本海に開けています。
ただし、「但馬」という国名の由来は、はっきりわかっていません。『古事記』には「多遅麻」「多遅摩」、『日本書紀』には「但馬」と、いくつかの表記が見えます。読み方は古くから「たじま」とされていたようです。
戦国時代の「但馬国」の変遷
戦国時代の但馬国は、山名氏が守護として勢力を保っていたものの、実際には垣屋氏、太田垣氏、八木氏、田結庄氏などの国人たちの力が強く、国内は一枚岩ではありませんでした。
そこに目を向けたのが、織田信長です。永禄12年(1569)、信長は木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)らを但馬へ差し向けました。信長が但馬を重視した理由の一つには、生野銀山の存在があったと考えられます。銀山は戦国大名にとって重要な財源であり、但馬は軍事だけでなく経済の面でも見過ごせない土地でした。

もっとも、この時点で但馬がすぐに織田方の支配下に入ったわけではありません。山名祐豊はなお勢力を保ち、毛利方とも結びながら抵抗を続けます。そのため但馬は、織田方と毛利方がせめぎ合う不安定な地域となりました。
こうした状況を大きく動かしたのが、秀吉です。天正5年(1577)以降、秀吉は播磨・但馬方面での軍事行動を本格化させます。そしてこのとき重要な役割を担ったのが、弟の羽柴秀長でした。秀吉は但馬を平定したのち、秀長を出石城に置き、豊岡には宮部継潤を配しています。
天正8年(1580)、秀吉方は再び但馬へ進攻し、山名祐豊の拠った有子山城を落とします。祐豊はまもなく没し、ここに山名氏の支配は終わりました。
最後に
戦国時代、但馬国は生野銀山を抱える重要地域として信長・秀吉の目を引きました。中でも注目したいのは、秀吉の但馬進攻と、その支配を支えた秀長の存在です。但馬国は、豊臣兄弟が力を伸ばしていく過程を具体的に映し出す土地でもあったのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『日本歴史地名大系』(平凡社)











