はじめに―宿屋飯盛とはどのような人物だったのか
江戸後期、狂歌と国学、そして戯作の分野で多彩な才能を発揮した人物がいました。それが、石川雅望(いしかわ・まさもち)、通称「宿屋飯盛」(やどやのめしもり)です。
旅籠屋の子として生まれながら、学問・文学・風刺を自在にあやつったその人生は、江戸文化の懐の深さと知的な笑いの世界を今に伝えます。本記事では、そんな宿屋飯盛の生涯と業績をたどりながら、その魅力に迫ります。
2025年NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、大田南畝に学び、狂歌四天王の一人に数えられた狂歌師(演:又吉直樹)として描かれます。

宿屋飯盛が生きた時代
宿屋飯盛こと石川雅望が生きたのは、江戸時代中期から後期にかけて。政治的には寛政の改革や文化・文政期の町人文化が花開いた時代であり、文芸の世界では狂歌・戯作・読本といったジャンルが庶民の間で人気を集めていました。
上方に比べて「笑い」の文化がやや遅れていた江戸において、飯盛は狂歌という言葉遊びの文学に機知と風刺を持ち込み、新たな表現を切り拓いていったのです。
宿屋飯盛の生涯と主な出来事
宿屋飯盛は宝暦3年(1753)に生まれ、文政13年(1830)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
旅籠屋の子から文芸の世界へ
石川雅望は宝暦3年(1753)、江戸・小伝馬町で旅籠(はたご)屋「糠屋」(ぬかや)の家に生まれました。父は浮世絵師・石川豊信(いしかわ・とよのぶ)でもあり、雅望も芸術的な素養を持って育ちます。
和学を津村淙庵(つむら・そうあん)に、漢学を古屋昔陽(ふるや・せきよう)に学び、さらに狂歌では大田南畝(おおた・なんぽ、四方赤良)に師事。
天明4年(1784)には『大木の生限』(たいぼくのはえぎわ)、『太の根』(ふといのね)などの狂歌本を出版し、狂歌師として頭角を現しました。

喜多川歌麿 筆 , 宿屋飯盛 撰『画本虫ゑらみ』,耕書堂蔦屋重三郎,天明8 [1788].
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1288345
無実の罪と蟄居の日々
寛政3年(1791)、家業の旅籠に関わる冤罪により、江戸を追放され近郊に10年以上の蟄居生活を送ることになります。この不遇の時期に彼は学問に打ち込み、辞書『雅言集覧』(がげんしゅうらん)や注釈書『源注余滴』を執筆。表現者としての基礎を固めました。
このような学問的蓄積が、後年の読本『飛騨匠物語』(ひだたくみのものがたり)などにつながっていきます。
狂歌界への華麗な復帰
文化4年(1807)ごろ、江戸に復帰した雅望は、すぐに狂歌界の第一線に返り咲きます。かつての同門・鹿津部真顔(しかつべのまがお)との対立では、風刺と笑いを重視した「天明調」を正統とし、俗語を駆使した落首体のスタイルで勝利。
『狂歌百人一首』でその路線を明確にしました。
職業狂歌師としての晩年
晩年は霊岸島で暮らし、息子の塵外楼清澄(じんがいろうきよずみ)とともに職業狂歌師として活動。『万代狂歌集』『飲食狂歌合』など数々の作品を出版し、門弟の指導にも尽力しました。
文政13年(1830)、78歳で没。浅草蔵前の正覚寺に葬られました。
まとめ
宿屋飯盛は、狂歌師・国学者・戯作者として多彩な足跡を残した人物です。天明期の笑いと風刺を原動力に、学問と文芸を融合させたその作風は、江戸町人文化の成熟を体現しています。
『雅言集覧』や『源注余滴』などの国学的業績に加え、狂歌本『万代狂歌集』や読本『飛騨匠物語』など著作は実に多岐にわたり、江戸時代の知的なユーモアと学びを今に伝えます。
その軽妙洒脱な言葉づかいと、時に鋭い社会批判のまなざしは、現代においてもなお新鮮な刺激を与えてくれる存在といえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











