馬琴との名コンビと読本挿絵
文化元年(1804)頃からは読本挿絵の世界に活躍の場を広げます。
中でも、作家・曲亭馬琴(きょくてい・ばきん)との共作『新編水滸画伝』『椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)』は、荒唐無稽な読本の世界を繊細かつ迫力ある描写で表現し、北斎の名を一躍高めました。

国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2557122
『北斎漫画』と絵手本の世界
文化11年(1814)には絵手本『北斎漫画』の刊行を開始。以後、死後まで含め全15編が発行され、計3000点以上の図が収録されました。
人物、動植物、風景、器物など、あらゆるものが描かれたこの絵本は、まさに「江戸時代の絵の百科事典」。
その秀逸なデッサンは、西洋に輸出された陶器の包装紙を通じて海外に伝わり、ゴッホやドガ、マネら印象派の画家たちにも大きな衝撃を与えました。
『富嶽三十六景』|風景画の金字塔
北斎芸術の頂点とされるのが、1830年代に発表された『富嶽三十六景』。中でも〈神奈川沖浪裏〉は、巨大な波と富士の対比が世界的に有名で、ゴッホが「鷲の爪」と呼んだとも伝わります。
このシリーズは当初36図の予定でしたが、大ヒットを受けて追加10図が描かれ、全46図となりました。

初編が刊行されたのは、天保5年(1834)です。
葛飾北斎 画『富岳百景 3編』一,永楽屋東四郎[ほか],天保5-6 [1834-1835] 序.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/8942997
90歳まで描き続けた不屈の絵師
晩年には肉筆画や花鳥画、そして獅子を描いた『日新除魔(にっしんじょま)』など、年齢を感じさせない瑞々しい作品を発表。
その間、画号を30回以上、住まいを93回も変えたとされ、号は「画狂老人」(がきょうろうじん)、「戴斗」(たいと)、「卍」(まんじ)など多岐にわたります。
生活は質素を極め、衣食住にも無頓着な一方で、画業への情熱は衰えることを知りませんでした。
嘉永2年(1849)、90歳で逝去。死の間際、「あと10年生きれば、ひとかどの絵師になれたのに」と語ったといいます。墓所は東京・浅草の誓教寺にあります。
まとめ
葛飾北斎は、その生涯を通して筆を手放さず、浮世絵の可能性を徹底的に追求し続けた孤高の絵師でした。常に変化を恐れず、伝統と革新を融合し、写実と空想の世界を自由自在に往来したその画風は、現代に生きる私たちにも深いインスピレーションを与えてくれます。
彼が描いた波や富士、町人や動植物たちは、単なる「絵」にとどまらず、時代を超えて人々の心を打つ物語を宿しているのかもしれません。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
『新版 日本架空伝承人名事典』(平凡社)











