はじめに-葛飾北斎とはどのような人物だったのか
「あと10年生きれば、ひとかどの絵師になれたのに」——。これは、90歳でこの世を去る直前の葛飾北斎の言葉です。浮世絵師として70年にわたり筆を握り、奇行の数々とともに膨大な作品を遺した北斎。
『富嶽三十六景』をはじめとする風景画や、『北斎漫画』に代表される絵手本は、日本国内はもとより、印象派の画家たちをはじめとする西洋の芸術家たちにも大きな影響を与えました。
今回は、そんな葛飾北斎の人生を、彼が生きた時代背景とともに振り返ります。
2025年NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、師匠の勝川春章(かつかわ・しゅんしょう)に誘われ、蔦重の耕書堂にやってくる勝川春朗(かつかわ・しゅんろう、演:くっきー!)として描かれます。

葛飾北斎が生きた時代
江戸後期は、町人文化が成熟し、出版や芸能、美術が花開いた時代。日本各地で名所図会や読本、錦絵などが人気を博し、人々の間で情報や娯楽が手軽に楽しめるようになりました。
そんな中、北斎は風景や人物、動植物、そして妖怪までをも題材に、ジャンルに縛られない表現を追求。あらゆる絵画様式を吸収しながら、己の表現を貫き、「森羅万象を描く絵師」として不動の地位を築いていきました。
葛飾北斎の生涯と主な出来事
葛飾北斎は宝暦10年(1760)に生まれ、嘉永2年(1849)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
絵を愛した幼少期
宝暦10年(1760)、葛飾北斎は江戸・本所割下水(ほんじょわりげすい)にて誕生。本名は川村氏、幼名は時太郎。幼少期に幕府御用鏡師・中島伊勢の養子となり、一時「鉄蔵」と名乗ります。
6歳の頃から絵を描くことを好み、14〜15歳で木版の彫りを学び、やがて浮世絵の道へと進んでいきます。
勝川派での修行と画壇デビュー
安永7年(1778)、19歳のとき、役者絵の名手・勝川春章の門に入り、「勝川春朗」と号して画壇にデビュー。以後、約15年ほど錦絵や黄表紙の挿絵を多数手がけ、着実に実力を蓄えていきます。
多様な画風を学び、独自の道へ
寛政6年(1794)、狩野派を学んだために勝川派を追放されてからは、住吉派・琳派・中国画・洋風画などを貪欲に学び、俵屋宗理(たわらや・そうり、二代目)を襲名。この時期には「時太郎可候」(ときたろうかこう)の筆名で戯作も執筆しています。
寛政10年(1798)には宗理号を返上し、「北斎」と名乗って独立。ここから北斎の本格的な創作人生が始まります。

初版は蔦屋重三郎他3軒連記のものとして、寛政11年(1799)に刊行。
浅草庵 作 ほか『画本東都遊 3巻』,享和2 [1802] 序.
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2533327
【馬琴との名コンビと読本挿絵。次ページ続きます】










