文筆活動の中断と幕臣としての道
しかし、松平定信による寛政の改革が始まると、いち早く20年に及んだ文筆活動を廃します。その背景には、2つの理由があったとされています。
ひとつは、「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜もねられず」という風刺的な落首の作者と疑われたこと。そのことを南畝は深く恥じたと伝えられます。
もうひとつは、田沼意次の腹心であり、のちに死罪となった土山宗次郎(つちやま・そうじろう)と親交があったこと。こうした関係が、南畝にとって筆を置く決断を促したともいわれています。
その後は御徒としての職務をこなしながら、学問に専念。寛政6年(1794)には人材登用試験(学問吟味)に首席で合格し、2年後には支配勘定に昇進。『孝義録(こうぎろく)』の編纂や勘定所の古記録の調査などに従事し、幕吏としても極めて有能な人物とされました。
晩年の復帰と随筆活動
やがて改革の緊張もゆるみ始めた享和元年(1801)、南畝は周囲の要望に応えるかたちで、仮号「蜀山人(しょくさんじん)」として再び狂歌を詠むようになります。
再開された狂歌は、往年の名声をしのぐほどの人気を集めました。一時的な仮名だった「蜀山人」は、のちに南畝を象徴する筆名として広く知られるようになります。
狂歌のみならず、漢詩や漢文の才も高く評価され、南畝は江戸を代表する文人として文化全体に影響を与える存在となりました。
晩年には、『一話一言(いちわいちげん)』、『俗耳鼓吹(ぞくじこすい)』、『南畝莠言(なんぽゆうげん)』などの随筆を次々と著し、江戸の風俗、世相、歴史考証などを平明な文体で記録しました。これらは江戸随筆の典型とも称され、後世の文人にとっても大きな指標となっています。
洒脱な最期
南畝は、病弱な息子を支えるため、70歳を過ぎても支配勘定としての職を続けていました。しかし、最終的には「御目見以上」への昇進は果たせませんでした。それはかつての狂歌師としての名声が影を落としたためともいわれています。
それでも、南畝の勤務ぶりは実直で、忠誠心に厚く、幕府内でも信頼を集めていたとされます。外交文書の和訳にもたびたび関わり、『沿海異聞(えんかいいぶん)』という記録も残しましたが、長崎奉行所勤務中のレザノフ来航に対しては、深い外交的認識を持てなかったとも評されています。享楽的で楽観的な江戸後期の直参武士らしい一面が垣間見えます。
その後、文政6年(1823)、75歳でこの世を去りました。文名は衰えることはなく、最晩年まで著作が出版されたそうです。
まとめ
大田南畝は、戯作・狂歌・随筆と、江戸文化のあらゆるジャンルに足跡を残した人物です。文人としての洒落や諧謔、そして幕臣としての誠実さ。どちらも彼の一側面にすぎず、その奥には、時代の空気を吸い込みながら生き抜いた、江戸の「文化人」としての姿が見えてきます。
庶民の笑いと知恵をすくい上げ、幕府に忠義を尽くしたその生涯は、江戸という都市の懐の深さと、人間の面白さを教えてくれるようです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)
