藤原道長からの圧迫と東宮辞退
道長は自らの計画が崩れたことに不満を抱き、東宮に伝えるべき「壺切の剣」を渡さないなど、敦明親王に対して種々の圧迫を加えました。このため、敦明親王の地位は不安定になります。
翌寛仁元年(1017)8月9日、父上皇没後、彼はやむなく東宮の地位を辞退したのです。その結果、敦良親王が東宮となりました。
小一条院としての後半生
東宮辞退後の同年8月25日、敦明親王は「小一条院」の院号を授けられ、准太上(だいじょう)天皇としての待遇を受けました。これは皇位につかず、院号を賜った最初の例だといいます。
一方で、藤原道長は自身の娘・寛子(かんし)を敦明親王の妃としました。そのとき、敦明親王のもとの妃であった延子(えんし)とその父・藤原顕光(あきみつ)は深い悲嘆に暮れたそうです……。その結果、顕光は死後、道長一家をたたる怨霊として恐れられたといわれています。
出家と最期
長久2年(1041)、敦明親王は出家。その後、永承6年(1051)1月8日、58歳で薨去しました。
まとめ
敦明親王の生涯は、皇位継承をめぐる藤原道長の政治的策略に翻弄されたものでした。父・三条天皇の強い意向で一時は皇太子となったものの、道長の圧力により東宮の地位を辞し、上皇に準じる待遇を受けることで生涯を終えます。彼の人生は、平安時代の権力闘争や皇族の複雑な立場を象徴するものだといえるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
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引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大事典』(吉川弘文館)