華々しい「田沼時代」到来
家治のもとで大出世を果たした意次。明和・安永・天明期の幕政を担当し、特に天明年間は「田沼時代」とも呼ばれ、意次の全盛期にあたります。幕府の経済対策を担った意次は、あらゆる政策を施行することとなりました。
8代将軍・吉宗の治世で行われた「享保の改革」以降も、幕府の財政難は完全に解決されていませんでした。そこで、意次は商業を重んじ、米以外の商品生産を奨励したり、市場を独占して将軍の専制権力を強めるために、同業者組合である株仲間を結成させたりして、商品経済を重視した政策に転換しようと試みます。
また、印旛沼・手賀沼(千葉県北部に位置する湖沼)の干拓などの新田開発にも力を入れ、完成した暁にはその8割を与えるという約束で、商人に融資させたそうです。さらに、仙台藩医・工藤平助が献上した『赤蝦夷風説考』を読み、北方の国防が必要であると考えます。
北方探検家・最上徳内(もがみ・とくない)を中心とする蝦夷地調査団を、現在の北海道に送り、同地の開発と交易を開始しました。そのほかにも、鉱山の開発や海外貿易の拡大、貸金会所(旗本・御家人に対する金融機関)の設置など、多方面での改革に乗り出したのです。
「天明の大飢饉」発生、強まる反感
画期的なアイデアと行動力で、幕政を支えた意次。一方で、幕府の利益や都合を優先させた意次の政治は、諸大名や庶民たちの反発を浴びることになります。さらに、幕府役人の間での賄賂の横行が発覚し、「品位に欠く行動である」と、幕府内外の保守層からの非難が殺到しました。
幕府の経済基盤を農業だけでなく、商業にも見出そうとした意次でしたが、利益が薄くなった分、農村部は困窮してしまいます。そこに追い打ちをかけるかのように、「天明の大飢饉」が発生してしまったのです。
天明3年(1783)の「浅間山の大噴火」が引き金となって発生した飢饉。冷害による不作が続き、多くの人々が亡くなりました。また、田沼時代は、明和の大火や東北地方を襲った水不足、コレラの流行など、数々の天変地異に見舞われた時代でもあります。
このような災難が続くのは意次の政治が悪いからであると、人々の不満は絶頂に達してしまうのです。
老中を罷免された意次、失意の最期
天明4年(1784)、意次を絶望させる事件が発生します。自身の息子であり、若年寄(老中に次ぐ重職)の意知(おきとも)が、江戸城内で暗殺されてしまったのです。犯人は、政敵・松平定信(まつだいら・さだのぶ)含む保守派であるとされています。
さらにその2年後、自身を重宝してくれた家治が、後を追うようにして亡くなり、完全に、四面楚歌の状態となってしまった意次。定信が老中となったことで、意次は役職を追われ、所領も没収されてしまいます。
そして、天明8年(1788)、意次は失意のうちに、70年の生涯に幕を閉じることとなったのです。
まとめ
「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」。これは、白河藩出身・松平定信の清らかすぎる政治と、意次の賄賂政治を風刺した狂歌です。汚職というイメージが強い田沼意次ですが、彼の時代は、華やかな江戸の町民文化が花開いたことでも知られています。
政治家としては評価の分かれる人物ですが、彼の革新的な政策は、当時の人々に大きな影響を与えたと言えるでしょう。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)