息子・結城秀康とともに暮らす
生まれた子は、「於義伊(おぎい)」という幼名をつけられました(一説には、もう一人は死産だったとも言われています)。この幼名は、家康が名付けたものであると伝えられています。しかし、「顔がギギという魚(鯰の一種)に似ていて気味が悪い」という理由で名付けたという逸話も残されており、もし事実なら、母子ともにかなり冷遇されていたと考えられます。
その後、天正12年(1584)に勃発した「小牧・長久手の戦い」にて、家康は秀吉との和睦を成立させるため、息子の於義伊を養子として出してしまいます。秀吉は、於義伊に「秀康」という名前を与え可愛がったそうですが、秀吉に息子が生まれたということもあり、結城家へ養子に出されることに。最終的に、結城秀康という名前になったそうです。
秀吉が亡くなった後、慶長5年(1600)の「関ケ原の戦い」にて、家康に与して戦った秀康。その武勇と功績を称えられ、越前国(現在の福井県)にあった北ノ庄(きたのしょう)城を与えられます。そこで、母・お万の方とともに生活することになりました。
不運な側室の寂しい最期
ようやく息子とともに暮らすことができた、お万の方。しかし、その生活も長くは続きませんでした。数年後、秀康は34歳という若さで病没してしまうのです。そして、養子に出されたとされる、もう一人の息子も、すでにこの世を去っていました。
この出来事を受けて、お万の方は、家康に相談せずに出家しました。その後、彼女は長勝院と称して息子たちの菩提を弔いながら、72年の生涯に幕を閉じたと伝えられています。
まとめ
家康の子を出産したにも関わらず、不遇のうちに生涯を終えたお万の方。時代に翻弄されたかわいそうな女性というイメージを持たれやすいお万の方ですが、彼女が懸命につないだ血筋は、現在にも受け継がれているのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
協力/静岡県観光協会
引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)