家康は三方ヶ原の戦いで、「空城の計」を使わなかった?
これまで解説してきた「空城の計」ですが、一説には家康が三方ヶ原の戦いで、信玄に敗れた際に用いた戦略であると言われています。この説によると、命からがら浜松城に逃れた家康は城門を開き、松明を焚かせ、これを警戒した信玄がそれ以上攻撃しなかったということです。
一方で、実際は「空城の計」を使ったわけではなかったという指摘もあります。江戸幕府公認史料である『武徳大成記』によれば、浜松城内では家康が戦死したとの噂が広まり、大混乱の状況であったとのこと。そこで、家康は自分がまだ戦える状況であることを知らしめるために、場外に発砲します。
銃声を聞いて、家康の生存を確認した部下が城に戻ってきたものの、混乱はまだ収まりませんでした。そこで、坊主頭の首を刀に差して、城中を周り、信玄を討ち取ったと嘘をついたのです。それによって、場内の混乱はおさまったということでした。
「空城の計」については、家康を称えるための創作『四戦紀聞』にある記述です。 信玄が浜松城を攻撃しなかった理由についても、「空城の計」を警戒したわけでもなく、簡単には落城せず手こずっている間に織田信長の援軍が到着するのではないかという懸念から中止したと言われています。
まとめ
中国由来の三十六計などの兵法は、日本でも受容され、そして実践されました。兵法については、三十六計以外にも『孫子』『六韜(りくとう)』などがあります。これを機に、伝統的な兵法を学んでみると、現在の生活にも役立てられることがあるかもしれません。興味のある方は、ぜひ一度紐解いてみてはいかがでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『⽇本⼤百科全書』(⼩学館)
『世界⼤百科事典』(平凡社)