妻との死別、植物図鑑の完成
その後、東京大学理学部の講師を務めた富太郎。大正15年(1926)には、北豊島郡大泉村(現在の練馬区立牧野記念庭園の所在地)に移住し、永住します。昭和2年(1927)には、65歳で理学博士の学位を受けた富太郎ですが、その翌年に妻の壽衛子(すえこ)が亡くなってしまうのです。
富太郎は、献身的に彼に尽くしてきた妻の死を悼み、感謝の気持ちを込めて発見して間もないササに「スエコザサ」と名付けました。そして、植物図鑑の編集に取りかかった富太郎は、10年近い歳月をかけて『牧野日本植物図鑑』を完成させたのです。
植物学研究に彩られた人生の終焉
晩年は自宅の庭にて植物の観察や採集を行った富太郎。90歳を超えた富太郎は、家族の心配をよそに寝る間も惜しんで植物の研究に勤しみました。そして昭和32年(1957)1月18日、富太郎は94年の生涯に幕を閉じたのです。
その後、最期まで植物研究に情熱を注いだ富太郎の功績を称え、文化勲章が送られています。
まとめ
「草をしとねに木の根のまくら 花と恋して五十年」。これは、70歳の時に富太郎が自作した都々逸。まるで富太郎の人生を表しているかのようです。
どのような状況でも、決して植物研究を諦めなかった富太郎。生涯で新種1,000、変種1,500余の植物に命名しました。彼が編集した『牧野日本植物図鑑』は、その後も改訂を重ね、現在も親しまれています。富太郎の研究内容や、植物に向き合う姿勢は、今も多くの研究者たちに影響を与え続けているのです。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/とよだまほ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)
『日本人名大辞典』(講談社)