路線図に見る熾烈な乗客争奪戦
大正、昭和初期は、全国に広がった鉄道が、人々により身近な存在になった時代といえる。とりわけ、鉄道で行楽に出かけるという、現代と変わらぬ余暇の過ごし方が一般的になった時代でもあった。今回は、昭和初期に発行された3点の地図を紹介。ひとりでも多くの乗客に利用してもらおうと、あの手この手で営業攻勢に出た鉄道会社の奮闘の跡が見えるものや、戦争の真っただ中に製作され、当時の世相が反映された地図など、貴重な逸品ばかりだ。鉄道好きのフリーアナウンサー・福澤朗さん(58歳)と地図研究家の今尾恵介さん(62歳)とともに、昭和初期の鉄道事情を紐解いてみたい。
【1】『東京中心旅行案内鳥瞰図』(昭和11年)
人々の生活水準が向上し、一大観光ブームが到来!
大正時代になるとサラリーマンなど新中産階級が増加し、鉄道で通勤をするスタイルが徐々に広まっていく。また、安定した給与を手にし、生活にゆとりが生まれた人々は余暇を楽しむようになった。初めに紹介するのは、そんな人々に向けて昭和11年に刊行された「東京中心旅行案内鳥瞰図」である。昭和初期の鉄道地図の究極ともいえる完成度に、福澤さんは圧倒された。
福澤朗さん(以下、福澤) うわ~~っ! これは素晴らしい地図だなあ。
今尾恵介さん(以下、今尾) 当時、鳥瞰図がすごく流行りました。大正時代には、“大正の広重”といわれた吉田初三郎が、鉄道会社や自治体の依頼を受けて盛んに描いていました。一般にも人気がありました。
福澤 富士山の立体感がいいですね。今尾さんはきっと、等高線が描かれた地図を見ただけで山の高さを立体的に感じられるのかもしれませんが(笑)、僕は鳥瞰図がわかりやすくて、見た目にも美しいので好きですね。当然、鉄道会社が観光促進にもつなげようと、製作したわけですよね。
今尾 そうですね。大正時代、第一次世界大戦後は日本の近代化が急速に進み、サラリーマンが急増しました。土曜半ドン(半休)、日曜休みという人たちに向けて、近場の旅行がクローズアップされたのです。
福澤 近場の旅行って、コロナ禍の今ではもっとも今風ですよね。鎌倉や横須賀あたりは日帰り旅行に最適な観光地ですが、ここにある「要塞地帯区域線」とは、なんですか?
今尾 横須賀には鎮守府、つまり海軍があるので、みだりに撮影や測量、スケッチをしてはいけないと警告しているのです。遥か房総半島の内房線でも、海が見えてくると車掌が鎧戸を閉めなさいと言って回ったそうです。
福澤 そんな区域があったんですか! つまり、機密情報を撮ってはいけないというわけですね。
今尾 鎌倉や横須賀周辺では、等高線が入った地図の販売も許されませんでした。撮影も、鎌倉に限っては、鎌倉大仏や鶴岡八幡宮なら許可なしで撮影可能でしたが、それ以外の多くは禁じられていましたね。
福澤 法を犯した者は法律によって処罰するとまで書かれています。
今尾 刊行に当たっては、昭和11年に東京湾要塞司令部の許可を得ており、横須賀鎮守府、すなわち“ヨコチン”の検閲も済んでいると書いてあります。鎌倉の地図や絵葉書を作る時も、ヨコチンの許可が必要だったのです。
福澤 司令部の許可が出ないと発行できなかったのはいかにも戦前らしいですが、よりによって略称がヨコチンですか(笑)!
【2】『西武電車沿線御案内』(昭和13年ごろ)
熾烈な乗客争奪戦の跡も!?
続いて披露されたのが、昭和13年に刊行された「西武電車沿線御案内」。実は福澤さん、今日のネクタイも車体が臙脂色とクリーム色の頃の西武鉄道のイメージのものを選んだほど、筋金入りの西武鉄道ファンという。そんな西武の各駅に置かれていたという沿線案内には、鉄道会社の様々な思惑もにじみ出ているようで……
福澤 実家が西武新宿線沿いで、通っていた小学校も下落合駅近くだったこともあり、西武鉄道は大好きなんです。
今尾 西武新宿線は高田馬場駅が起点ですが、実は、早稲田まで営業免許を取得していました。将来的に、早稲田に建設予定の東京市営地下鉄に繋ぐ予定だったそうです。早稲田大学は多くの学生が鉄道を使うので、最大のお得意様でした(笑)。
福澤 だから大学の運動場(東伏見駅付近)まで、でかでかと書いているんですね。
今尾 沿線の観光名所のPRも見逃せません。特に力を入れて宣伝しているのが、表紙にも描かれた村山貯水池(多摩湖)です。
福澤 裏面の沿線案内を見ると、新井薬師はたったの2行なのに、村山貯水池の説明は数十行ありますね。
今尾 新井薬師は、高田馬場から乗ってもほんの数駅なので、儲からないんですよね(笑)。
福澤 なるほど、村山貯水池は都心から離れているぶん運賃が高くなるので、積極的に宣伝しているわけですね。そういえば、僕が以前に司会を担当した「全国高等学校クイズ選手権」の関東大会の会場は、西武ドーム(現・ベルーナドーム)でした。会場を借りられたのは、とりもなおさず、高校生が西武鉄道に乗ってくれるからでした。鉄道会社は、長距離を乗ってくれる人に優しいんですね(笑)。
今尾 西武ドームが都心から離れているのも、電車に乗ってほしいという西武鉄道の思惑なのでしょうね。
福澤 そして、路線図の赤でもオレンジでもない絶妙な色合いが、初期のレッドアロー号の帯のようで美しいなあ。
今尾 自社は目立つ赤線で、国鉄は細い黒線で書いています。そして、ライバルの武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)は敢えて外して載せていないんですよ。これは自社に誘導するための宣材ですからね。「他社にはあまり乗ってくれるなよ」という、強い意志の表れです(笑)。
【3】東京急行電鉄沿線案内図(昭和18年)
戦時下に誕生した“大東急”を物語る地図
あらゆる物資や人が戦争に駆り出された戦時下真っただ中の、昭和18年に発行されたのが「東京急行電鉄沿線案内図」である。不要不急な駅が廃止され、いたるところに戦時下ならではの軍部や政府への“忖度”の跡も見られる。
今尾 この地図を見て、不思議だと思いませんか。ここも東急、あちらも東急、こちらも東急。昭和17年に、国策で東京南西部の小田急電鉄、帝都電鉄、京王電鉄などが、すべて東急電鉄にまとめられました。いわゆる「大東急」の時代です。
福澤 今はなくなった遊園地や駅がたくさんありますね。先ほども出てきた要塞地帯区域線が広がっていて、この頃は江ノ島も要塞地帯に含まれていたんですね。
今尾 さらに興味深いのは、政府や軍部に対して、鉄道会社が忖度や自粛を行なった跡が見られることです。平沼駅やコロムビア前駅など、不要不急とされた駅が相次いで休止されています。線を引いて「休止」としているのは、節電のために休止した駅です。
福澤 お国が「NO」と言ったら、何もできなかった時代ですからね。
今尾 また、この地図が発行された翌年には、綱島温泉は「綱島」駅に、キリンビール前駅は「キリン」駅になりました。改称に至った経緯は記録が残っていませんが、おそらく、非常時なので温泉やビールを贅沢と見なす風潮があり、駅名を変えたと考えられるのです。
福澤 ただ、この地図は昭和18年にしてはきれいな紙質です。また、鉄道会社も国には忖度しているけれど、ライバル会社は相変わらず無視して載せていませんね。そこは割り切っているんだなあと思いました。
文/山内貴範 撮影/藤田修平