路線図に見る熾烈な乗客争奪戦

大正、昭和初期は、全国に広がった鉄道が、人々により身近な存在になった時代といえる。とりわけ、鉄道で行楽に出かけるという、現代と変わらぬ余暇の過ごし方が一般的になった時代でもあった。今回は、昭和初期に発行された3点の地図を紹介。ひとりでも多くの乗客に利用してもらおうと、あの手この手で営業攻勢に出た鉄道会社の奮闘の跡が見えるものや、戦争の真っただ中に製作され、当時の世相が反映された地図など、貴重な逸品ばかりだ。鉄道好きのフリーアナウンサー・福澤朗さん(58歳)と地図研究家の今尾恵介さん(62歳)とともに、昭和初期の鉄道事情を紐解いてみたい。

福澤朗さん
1963年、東京都生まれ。1988年に早稲田大学第一文学部を卒業後、日本テレビ入社。アナウンサーとして数々のヒット番組に出演し、同局チーフ・アナウンサーを経てフリーに。趣味は鉄道のほか、日本酒、和菓子など。『開運!なんでも鑑定団』『鉄道沿線歩き旅』(テレビ東京系)など出演多数。
今尾恵介さん
1959年、横浜市生まれ。小学生の頃から地形図や時刻表に親しむ。出版社勤務を経て、1991年にフリーライターとして独立。地図や地形図、鉄道などの著作を数多く執筆。著書に『鉄道でゆく凸凹地形の旅』(朝日新書)など多数。『日本鉄道旅行地図帳』(新潮社)シリーズや、9月29日刊行予定の『日本鉄道大地図館』(小学館)の監修も務める。

【1】『東京中心旅行案内鳥瞰図』(昭和11年)

人々の生活水準が向上し、一大観光ブームが到来!

『東京中心旅行案内鳥瞰図』瀬戸曻蔵

大正時代になるとサラリーマンなど新中産階級が増加し、鉄道で通勤をするスタイルが徐々に広まっていく。また、安定した給与を手にし、生活にゆとりが生まれた人々は余暇を楽しむようになった。初めに紹介するのは、そんな人々に向けて昭和11年に刊行された「東京中心旅行案内鳥瞰図」である。昭和初期の鉄道地図の究極ともいえる完成度に、福澤さんは圧倒された。

福澤朗さん(以下、福澤) うわ~~っ! これは素晴らしい地図だなあ。

今尾恵介さん(以下、今尾) 当時、鳥瞰図がすごく流行りました。大正時代には、“大正の広重”といわれた吉田初三郎が、鉄道会社や自治体の依頼を受けて盛んに描いていました。一般にも人気がありました。

福澤 富士山の立体感がいいですね。今尾さんはきっと、等高線が描かれた地図を見ただけで山の高さを立体的に感じられるのかもしれませんが(笑)、僕は鳥瞰図がわかりやすくて、見た目にも美しいので好きですね。当然、鉄道会社が観光促進にもつなげようと、製作したわけですよね。

今尾 そうですね。大正時代、第一次世界大戦後は日本の近代化が急速に進み、サラリーマンが急増しました。土曜半ドン(半休)、日曜休みという人たちに向けて、近場の旅行がクローズアップされたのです。

福澤 近場の旅行って、コロナ禍の今ではもっとも今風ですよね。鎌倉や横須賀あたりは日帰り旅行に最適な観光地ですが、ここにある「要塞地帯区域線」とは、なんですか?

今尾 横須賀には鎮守府、つまり海軍があるので、みだりに撮影や測量、スケッチをしてはいけないと警告しているのです。遥か房総半島の内房線でも、海が見えてくると車掌が鎧戸を閉めなさいと言って回ったそうです。

福澤 そんな区域があったんですか! つまり、機密情報を撮ってはいけないというわけですね。

今尾 鎌倉や横須賀周辺では、等高線が入った地図の販売も許されませんでした。撮影も、鎌倉に限っては、鎌倉大仏や鶴岡八幡宮なら許可なしで撮影可能でしたが、それ以外の多くは禁じられていましたね。

福澤 法を犯した者は法律によって処罰するとまで書かれています。

今尾 刊行に当たっては、昭和11年に東京湾要塞司令部の許可を得ており、横須賀鎮守府、すなわち“ヨコチン”の検閲も済んでいると書いてあります。鎌倉の地図や絵葉書を作る時も、ヨコチンの許可が必要だったのです。

福澤 司令部の許可が出ないと発行できなかったのはいかにも戦前らしいですが、よりによって略称がヨコチンですか(笑)!

「昭和初期には、関東の鉄道網がほぼ完成されました」と、今尾さんが解説。そして、『東京中心旅行案内鳥瞰図』は現在でも日帰り旅行のお伴にできそうなほど、完成度が高い地図という。
「僕はこの地図が、一番欲しいかもしれないなあ(笑)。富士山以外の山の名前もしっかり描いているのがいいですね」と福澤さんが話すように、沿線の山の名前が事細かに記され、そのまま山岳ガイドとしても使えそうだ。当時の人々もアウトドアなどのレジャーを満喫したのだろうか(富士山周辺を拡大)。
要塞地帯は三浦半島全域や房総半島の西側などが含まれる。東京湾には軍艦を思わせる船の絵もある。要塞地帯には金沢八景や鎌倉、葉山などの観光名所が多く、“くろたい”“あじ”など、沿線で水揚げされる魚の名称も掲載されている。旅先では不自由なこともあったかもしれないが、人々は鎌倉大仏に圧倒され、海の幸に舌鼓を打つなど、現在とほぼ変わらぬ旅を楽しんだのだろうか(三浦半島周辺を拡大)。

【2】『西武電車沿線御案内』(昭和13年ごろ)

熾烈な乗客争奪戦の跡も!?

『西武電車沿線御案内』佐藤美知男蔵

続いて披露されたのが、昭和13年に刊行された「西武電車沿線御案内」。実は福澤さん、今日のネクタイも車体が臙脂色とクリーム色の頃の西武鉄道のイメージのものを選んだほど、筋金入りの西武鉄道ファンという。そんな西武の各駅に置かれていたという沿線案内には、鉄道会社の様々な思惑もにじみ出ているようで……

福澤 実家が西武新宿線沿いで、通っていた小学校も下落合駅近くだったこともあり、西武鉄道は大好きなんです。

今尾 西武新宿線は高田馬場駅が起点ですが、実は、早稲田まで営業免許を取得していました。将来的に、早稲田に建設予定の東京市営地下鉄に繋ぐ予定だったそうです。早稲田大学は多くの学生が鉄道を使うので、最大のお得意様でした(笑)。

福澤 だから大学の運動場(東伏見駅付近)まで、でかでかと書いているんですね。

今尾 沿線の観光名所のPRも見逃せません。特に力を入れて宣伝しているのが、表紙にも描かれた村山貯水池(多摩湖)です。

福澤 裏面の沿線案内を見ると、新井薬師はたったの2行なのに、村山貯水池の説明は数十行ありますね。

今尾 新井薬師は、高田馬場から乗ってもほんの数駅なので、儲からないんですよね(笑)。

福澤 なるほど、村山貯水池は都心から離れているぶん運賃が高くなるので、積極的に宣伝しているわけですね。そういえば、僕が以前に司会を担当した「全国高等学校クイズ選手権」の関東大会の会場は、西武ドーム(現・ベルーナドーム)でした。会場を借りられたのは、とりもなおさず、高校生が西武鉄道に乗ってくれるからでした。鉄道会社は、長距離を乗ってくれる人に優しいんですね(笑)。

今尾 西武ドームが都心から離れているのも、電車に乗ってほしいという西武鉄道の思惑なのでしょうね。

福澤 そして、路線図の赤でもオレンジでもない絶妙な色合いが、初期のレッドアロー号の帯のようで美しいなあ。

今尾 自社は目立つ赤線で、国鉄は細い黒線で書いています。そして、ライバルの武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)は敢えて外して載せていないんですよ。これは自社に誘導するための宣材ですからね。「他社にはあまり乗ってくれるなよ」という、強い意志の表れです(笑)。

「高田馬場から下落合の間には、ほぼ直角に曲がる区間があるんです。電車が通ると“キー、キー、キー”という耳をつんざかんばかりの音がして、子どもながらに僕は鉄道が泣いていると思いました」と、西武鉄道の思い出を語る福澤さん。今尾さんから、実は高田馬場から早稲田までの延伸計画があったと聞いた福澤さんは、「早稲田まで行けなくて、悔しくて、泣いていたのかもしれませんね」と語った。
哲学堂や新井薬師など沿線の名所のほか、早稲田大学を筆頭に、東亜商業学校(現在の東亜学園高等学校)、目白商業学校(現在の目白研心中学校・高等学校)などの学校を描く。また、山手線の内側に住宅が密集する一方で、西武沿線を牧歌的な風景に描いていることにも注目した。「密集した都会とは異なり、空気も環境も良い当社の沿線は、家を建てるには最適ですよという意図がみえます」と、今尾さん。
表紙はもちろん、地図でも大きく描かれている村山貯水池は、大正以降に東京の人口が急増したため、水源を確保するために整備された。ドーム状の屋根をもつ第一取水塔は大正14年の竣工で、その優美な姿は現在も湖のシンボルである。表紙にはスマートな西武の列車と、“高田馬場から急行で30分”の文字も。
裏面の「沿線遊覧御案内」では、村山貯水池は下段の大部分を使い宣伝されている。「近郊第一の一大自然公園」であり、「富士山や大山が遠望できる」「清涼の空気の中に思う存分の紫外線を浴び、一日を楽しく過ごすことができる」「家族でのハイキングに最適」といった塩梅に、多くの文章で魅力を説明。乗客を誘致したいという西武鉄道の狙いがとてもわかりやすい。
「僕は列車には『きかんしゃトーマス』のように感情があると思っていて、それをもっとも感じたのが高田馬場から下落合の間の急カーブなんですね」(福澤さん)

【3】東京急行電鉄沿線案内図(昭和18年)

戦時下に誕生した“大東急”を物語る地図

『東京急行電鉄沿線案内図』関田克孝蔵

あらゆる物資や人が戦争に駆り出された戦時下真っただ中の、昭和18年に発行されたのが「東京急行電鉄沿線案内図」である。不要不急な駅が廃止され、いたるところに戦時下ならではの軍部や政府への“忖度”の跡も見られる。

今尾 この地図を見て、不思議だと思いませんか。ここも東急、あちらも東急、こちらも東急。昭和17年に、国策で東京南西部の小田急電鉄、帝都電鉄、京王電鉄などが、すべて東急電鉄にまとめられました。いわゆる「大東急」の時代です。

福澤 今はなくなった遊園地や駅がたくさんありますね。先ほども出てきた要塞地帯区域線が広がっていて、この頃は江ノ島も要塞地帯に含まれていたんですね。

今尾 さらに興味深いのは、政府や軍部に対して、鉄道会社が忖度や自粛を行なった跡が見られることです。平沼駅やコロムビア前駅など、不要不急とされた駅が相次いで休止されています。線を引いて「休止」としているのは、節電のために休止した駅です。

福澤 お国が「NO」と言ったら、何もできなかった時代ですからね。

今尾 また、この地図が発行された翌年には、綱島温泉は「綱島」駅に、キリンビール前駅は「キリン」駅になりました。改称に至った経緯は記録が残っていませんが、おそらく、非常時なので温泉やビールを贅沢と見なす風潮があり、駅名を変えたと考えられるのです。

福澤 ただ、この地図は昭和18年にしてはきれいな紙質です。また、鉄道会社も国には忖度しているけれど、ライバル会社は相変わらず無視して載せていませんね。そこは割り切っているんだなあと思いました。

軍部や政府に配慮しつつも、ライバル会社には配慮しない点が面白いと話すふたり。
現在では決して見られない要塞地帯に関する注意書き。測量や撮影、さらには模写までもが禁じられている。寺院を表す図はシンプルだが、日露戦争で活躍した戦艦三笠を展示する「記念艦三笠」は軍艦旗まで緻密に描く(浦賀駅付近を拡大)。
平沼駅は“不要不急”を理由に「休止」され、二重線が引かれている。キリンビール前駅は昭和19年にキリン駅と改称された(現在は廃駅)。そして、要塞地帯の区域線に注目。戦争が激化するにつれて、最初に紹介した『東京中心旅行案内鳥瞰図』から要塞地帯の範囲が拡大され、なんと横浜駅までもが組み込まれている。
今尾さんによると、「戦後間もない時期の地図は触っただけで破れてしまうほど、劣化が進んだものもある」というが、この地図は福澤さんの指摘のように、戦時中ながら紙質が良好。福澤さんは手触りを確かめながら、「復刻された地図、と言われてもわからないほど、状態が良いですね」と話す。

9月29 日発売予定の『日本鉄道大地図館』。
鉄道地図で旅する激動の日本近現代史。
1872年(明治5年)に日本で鉄道が開業してから2022年で150周年になります。それは地図に鉄道路線が描かれた歴史でもあります。事業者は路線の計画や工事のため、利用者は目的地へ辿り着くために路線図や系統図が必要でした。また、観光客向けの絵図やポスターにも鉄道路線が魅力的に描かれました。この150年間に作られた様々な鉄道地図からおよそ150点を厳選して掲載しています。

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文/山内貴範 撮影/藤田修平

 

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