文/原田伊織

「徳川近代」――。何やら聞きなれないフレーズを打ち出した本(『消された徳川近代 明治日本の欺瞞』)が密かに話題を集めている。著者は『明治維新の過ち』を嚆矢とする維新三部作のベストセラーで知られる原田伊織氏。近代は明治からというこれまでの常識に挑んだ書だ。

幕末の日本でいち早く近代化を推進した小栗上野介忠順は、「徳川近代」を象徴する幕臣である。その小栗が維新後、さしたる理由もなく新政府軍に斬首されたことに「維新の実像」が見えて来る。

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徳川を超越していた小栗の幕政改革

小栗上野介忠順といえば、どうしても「横須賀造船所」である。

徳川近代の優秀なテクノクラートたちが歴史の舞台から抹殺されている中で、小栗だけが僅かに知られているのは、国民的作家司馬遼太郎氏が彼を明治礼賛の立場から評価したからであろう。その結果であろうが、小栗といえば横須賀造船所のみがクローズアップされて認知されている感がある。そして、少し小栗の世界に足を踏み入れたとしても、これまでブロードウェイの大行進というシーンのみが注目されるだけであった。

小栗は、何も造船所を残しただけの人物ではない。横須賀造船所が明治近代に入って果たした役割を考えれば、造船所の建設だけでも特筆すべき偉業であるが、幕閣に人を得ない幕府が衰退のスピードを速める中で、小栗はさまざまな幕政改革を企画、その実施に奔走した。

軍艦を造った、大砲の砲弾を造った等々はすべて事実で、それは日本の近代工業化に顕著な影響を与えたことは紛れもないことである。しかし、そのようなハード面だけに着目するだけに留まっていてはいけない。この工場に導入されたソフト面の施策は、ハード面と同等の、いや、それ以上の「近代化の芽」としてもっと強いスポットライトを当てるべきであろう。

欧米列強の外圧、薩摩・長州の攘夷という名のテロリズムの横行を受けて、幕府は何度か軍制改革を行っている。徳川近代という社会をそのまま維持、発展させることができていれば、日本は明治近代のような天皇原理主義の支配する国粋主義国家になることなく、真っ当な近代を迎えていたであろうことは間違いのないところであるが、そのためには軍制改革はもっと早く断行すべきであった。決して間に合わなかったとは断定しないが、遅きに失した感がある。

幕府が軍制改革に着手したのは、阿部正弘政権下の安政元(1854)年のことである。同年七月二十四日、大目付井戸弘道、同筒井政憲以下七名が軍制改正掛に任命され、講武場創設の大綱が定められた。七名の中には、勘定奉行川路聖謨、目付岩瀬忠震も含まれている。

講武場の実際の開場は、安政三(1856)年四月にずれ込んだ。これは、安政二年十月に発生した安政江戸地震の影響である。この地震は、M7.0〜7.1、元禄大地震以来の都市直下型地震で、私たちは江戸期に既に二度「首都直下型地震」を経験しているのだ。安政江戸地震は品川台場を殆ど崩壊させ、下町の被害が特に甚大で、下町だけで倒壊約一万五千、死者約一万、吉原が全焼し、遊女・客約千人が死亡した。

講武所は、こういう試練を乗り越えて開場したもので、開場の際に正式に「講武所」と名称を変えたものである。

講武所では砲術も教授したが、この時から砲術は西洋砲術に切り替えられた。これが、講武所の一つの大きな特徴であった。

そして、安政五(1858)年一月、深川越中島に銃隊調練場が設けられ、従来の徒組、小十人組に加えて、小姓番組、書院番組、大番組など、番方にも入門が命じられた。

ところが、出席率が悪かった。何のかのと理由をつけて出てこない。出てきても、上役の目をごまかす。やる気など全くない者が多かったのが実情であった。

この頃既にオランダ陸軍教練書の翻訳マニュアルが存在し、「気を付け」「肩に筒」「捧げ筒」「前へ進め」「立て、筒」といった号令が存在した。歩兵戦闘は、武家の戦闘時の動きとは全く異なる組織的運動が基本である。一小隊三十二名の行進、散兵といった基本運動が組織として自在にできなければ歩兵隊とは言えないのだ。

大体、士分の者は鉄砲を持つことを嫌がる。鉄砲で戦うことを軽蔑したのである。更に、教練ではゲベール銃を使用したが、その重量は約四キロである。私の父が召集された満州事変の頃、帝国陸軍はまだ三八式歩兵銃を使っていたが、これが大体四キロであった。これを常に提げ、時に抱えて走るのは確かに大変である。旗本連中はこれを嫌がったのだ。こういう連中を歩兵に仕立てても実戦の役に立たないことは、誰の目にも明白であった。

文久二(1862)年、幕府は再び軍制改革を実施する。これには、小栗が深く関わっている。

徳川近代の国防の基本方針は、「全国御備え」、即ち、日本全土を防衛構想の対象とすることと、海軍拡張を優先することであった。文久の軍制改革は、「親衛常備軍」の創設を目的としたものである。つまり、「全国御備え」から始めることとしたものなのだ。これは、いってみれば「国民軍」の創設を意識したものであるが、国民軍といえば世界史の常識では絶対主義国家でしか成立しない。このあたりも、日本史が世界史とは異質な変化を遂げていることを示している。

改革の大綱は、やはりオランダの兵制をお手本にしており、歩兵・騎兵・砲兵の三兵の編成を目指したものであった。

同年十二月、歩兵に関して要員の差出しを知行取旗本に命じる「兵賦令」が発令された。歩兵の内、重歩兵を知行取旗本の知行地から供給させようとしたものである。

例えば、五百石の旗本は一人、千石は三人といった具合である。五百石未満と蔵米取は兵賦の代わりに「金納」とされた。

重歩兵とは、銃剣を武器とする戦列歩兵のことである。これが、近代初期の陸戦では主役となるのだ。一小隊(ペロトン platoon)=二十伍(二人一組=四十人)が十隊で大隊(バタイロン battalion)となり、二大隊=一連隊(レジメント regiment)となる。

幕府は、六連隊(十二大隊)=旗手を除いて四千七百八十八人を重歩兵の主力として編成したのである。兵賦から計算すると総員は六千三百八十一人になるのだが、主力約四千八百以外は、江戸城留守部隊(四大隊)と城外郭門警備部隊(十三小隊)となる。実際には、兵賦通りの総員は徴集できていなかったようである。

身分制における上位の旗本には鉄砲を持たせず、徒歩では戦わない騎兵とするなど、幕府はそれなりに考えたのだ。しかし、このことは、幕府が旗本を戦力として頼らなくなりつつあったことを示しているともみられるのだ。では、鉄砲を持って戦う兵として幕府は誰に期待したのか。旗本の知行地である農村から徴集されてきた百姓である。

ここに、近代陸軍歩兵隊のルーツとも言うべき幕府歩兵隊が誕生したのである。

次回につづく。


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