関ヶ原の戦いの功績により広島城を任される
関ヶ原の戦いの功労が認められ、安芸・備後両国(広島県)を福島正則が治めることになりました。関ヶ原の戦いで西軍の主力を担った旧毛利領に当たり、毛利氏を強く意識した配置だと考えられています。福島正則の入国段階での石高は分からないものの、元和3年(1617) には約50万石にも及びました。
福島正則は広島城を居城としたほか、三原城(広島県三原市)など6か所に支城を設置し、有力家臣を配置し地域支配に努めました。また、石高を基準とした年貢徴収制度を整備。さらに、城下町広島や宮島・尾道等の経済の要所では、農民、商工業者、武士は明確に区別する、近世的な身分制度を確立しました。
経済面では、広島城の北部を通る西国街道を城下に引き入れ、町人の居住区を拡大し、城下町広島の商業の発展を図りました。広島城の外郭部分の整備のほか、洪水に備え広島城外周部の川沿いの堤防を対岸より高くしたことなども伝えられています。
徳川幕府と対立し川中島で晩年を過ごす
広島城を居城とし、有力大名としての地位を確立していた福島正則に、大きな転機が訪れます。元和4年(1618)に行った広島城の普請(工事)が、幕府に咎められることになるのです。というのも、元和元年(1615)に幕府が制定した武家諸法度により、大名の居城の普請は幕府への事前の届出が必要となっていました。しかし福島正則は事前に届け出をせず、事後報告で済ます形になったのです。
無断の普請により、新たに修復した石垣・櫓の破却や、息子の福島忠勝の上洛などが課されますが、福島正則は課せられた条件を十分に実行しなかったため、津軽 (現在の青森県西部)への転封・蟄居が決定されます。
その後、転封先は津軽から信濃川中島(長野県長野市)等に変更。広島城時代には約50万石あった石高は4万5千石まで減らされてしまいました。それでも、晩年の5年間を過ごした信濃高井野(長野県高山村)では治水工事・用水建設・新田開発を行い、今も残る「福島正則屋敷跡」(長野県指定史跡)」や「福島正則荼毘所跡」(高山村指定史跡)に領民に慕われた面影が偲ばれます。
羽柴秀吉に取り立てられ全国を転戦し出世するものの、秀吉の死後は石田三成との対立から、徳川家康の陣営へ。関ヶ原の戦いでの功績から広島城を得るものの、徳川幕府との軋轢によって改易され、不遇な晩年を過ごしたとされます。しかし、最後の赴任地となった信濃高井野には、領民に慕われた跡が今も残っています。
そして川中島と言えば、武勇を轟かせた武田信玄と上杉謙信が、激闘を繰り広げた激戦地としても知られます。両雄と同様、武勇で名を馳せた福島正則は、信濃の地で何を思いながら晩年を過ごしたのでしょうか。
※歴史的事実は、各自治体が発信している情報(公式ホームページ等)を参照しています。
写真・文/藪内成基
奈良県出身。国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。主に「城びと」(東北新社)へ記事を寄稿。異業種とコラボし、城を楽しむ体験プログラムを実施している。