江戸幕府は260もの諸藩を統制するために、改易や転封を行っていました。どのような場合に、どのようにして行われたのでしょう。また、主君の死を追う殉死は、武士たちにどう考えられていたのでしょう。
今回は、江戸時代の大名統制に関するクイズを5問、「江戸文化歴史検定」(通称・江戸検)の過去問題からピックアップしてみました。ぜひ挑戦してみてください。
【クイズ1】
間宮林蔵は蝦夷地探索ののち、勘定所普請役として抜け荷(密貿易)調査で全国を歩き、天保6年(1835)にある藩の朝鮮密貿易の情報をつかみます。その結果、藩主松平康任は幕府の老中を解任され、陸奥国に転封させられました。さて、この藩とは何藩でしょう?
(い)高田藩
(ろ)平戸藩
(は)浜田藩
(に)松江藩
【クイズ2】
大坂の陣後、多くの大名が改易になっています。では、次の改易された大名のうち、石高が最も高かったのは誰でしょう?
(い)松平忠直
(ろ)徳川忠長
(は)加藤忠広
(に)加藤明成
【クイズ3】
男子のいない大名家は、養子をとることによって家督を相続することができましたが、当主がある年齢に達していない場合は、原則として養子をとることが禁じられていました。その年齢とは何歳未満だったでしょう?
(い)15歳
(ろ)17歳
(は)20歳
(に)30歳
【クイズ4】
3代将軍家光が死去した際、5人の重臣が追腹を切りましたが、そのなかには老中を経験した人物が2人いました。そのひとりは阿部重次ですが、もうひとりは誰でしょう?
(い)阿部忠秋
(ろ)酒井忠勝
(は)堀田正盛
(に)松平信綱
【クイズ5】
江戸時代初期には、主君の死を追う殉死(追腹)が武士の美徳のひとつとされました。『明良洪範』によれば、殉死には純粋な忠誠心を表わすための「義腹」や、周囲への対面上行なわれた「論腹」のほかに、子孫の栄達などをもくろんだ打算的な理由によるものもありました。では、こうした打算的な殉死を、何と呼んだでしょう?
(い)商腹
(ろ)勘定腹
(は)銭腹
(に)算盤腹
以上、5問です。いかがでしょうか?