それでは、正解を発表します!
【クイズ1】
間宮林蔵は蝦夷地探索ののち、勘定所普請役として抜け荷(密貿易)調査で全国を歩き、天保6年(1835)にある藩の朝鮮密貿易の情報をつかみます。その結果、藩主松平康任は幕府の老中を解任され、陸奥国に転封させられました。さて、この藩とは何藩でしょう?
(い)高田藩
(ろ)平戸藩
(は)浜田藩
(に)松江藩
正解(は)
石見国浜田藩は財政再建のため、李氏朝鮮と密貿易を行ったが、外国船の渡来や密貿易調査の隠密活動を行っていた間宮林蔵により発覚した。
【クイズ2】
大坂の陣後、多くの大名が改易になっています。では、次の改易された大名のうち、石高が最も高かったのは誰でしょう?
(い)松平忠直
(ろ)徳川忠長
(は)加藤忠広
(に)加藤明成
正解(い)
松平忠直は結城秀康の長男で、越前国北庄68万石を領した。徳川忠長は家光の弟で、駿府55万石。加藤忠広は熊本藩54万石。加藤明成は会津藩40万石。
【クイズ3】
男子のいない大名家は、養子をとることによって家督を相続することができましたが、当主がある年齢に達していない場合は、原則として養子をとることが禁じられていました。その年齢とは何歳未満だったでしょう?
(い)15歳
(ろ)17歳
(は)20歳
(に)30歳
正解(ろ)
末期養子は、家の断絶を防ぐため、当主の死の間際にとる養子のこと。50歳以上・17歳未満の末期養子は認められなかった。
【クイズ4】
3代将軍家光が死去した際、5人の重臣が追腹を切りましたが、そのなかには老中を経験した人物が2人いました。そのひとりは阿部重次ですが、もうひとりは誰でしょう?
(い)阿部忠秋
(ろ)酒井忠勝
(は)堀田正盛
(に)松平信綱
正解(は)
堀田正盛は佐倉藩藩主。13歳の時から家光に近侍しその寵愛により、また祖母・春日局の権勢により、旗本の出ながら大名、幕府老中と異例の出世をした人物。
【クイズ5】
江戸時代初期には、主君の死を追う殉死(追腹)が武士の美徳のひとつとされました。『明良洪範』によれば、殉死には純粋な忠誠心を表わすための「義腹」や、周囲への対面上行なわれた「論腹」のほかに、子孫の栄達などをもくろんだ打算的な理由によるものもありました。では、こうした打算的な殉死を、何と呼んだでしょう?
(い)商腹
(ろ)勘定腹
(は)銭腹
(に)算盤腹
正解(い)
『明良洪範』では、子孫の加増や栄達を求めて行なう打算的な殉死を「商腹」としているが、実際には子孫が加増や栄達を遂げたという例はみられなかった。
* * *
いかがでしたか? 今回のクイズは全体的に難しめでした。特に1問目は正解率が24%とかなりの難問!
※問題の出典:『“通”になる“粋”になる 江戸検クイズ百問答<事件編>』
取材・文/オノハルコ(晴レノ日スタヂオ)