僕はデジタルカメラにパソコンをつなぎ、撮影を始める。シャッターを切るたびに、薄暗い社殿にストロボの閃光が稲妻のように走る。1500年の時間を過ごしてきた仏像の姿は、0と1のデジタルデータに置き換えられ、パソコンのハードディスクに記録される。1500年前には想像もできなかったであろう科学技術と、現代では残っていることが奇跡に近い仏像の存在が、レンズの奥でひとつに融合する。僕は段々、不思議な気持ちになってきた。もしかしたら僕が今日、ここでこの仏像を撮影することは、1500年前に、すでに運命として決まっていたのかもしれない。仏像の優しいまなざしをファインダーの中で受け止めながら、そんな思いが、ふと心の隅をよぎった。
撮影終了後、妙高市の学芸員の方から、この仏像が絶対秘仏になった理由について説明を聞いた。それによると仏像は、天正10年に寺が焼かれた後、灰の中から拾いだされ、社殿に安置されていた。江戸時代になって宝蔵院は、幕府の庇護のもとに再建され、仏像は再び、その寺の本尊となった。
江戸期は神仏習合思想であったため、寺と神社は混在していたのだが、明治時代に入ると、政府が神仏分離の政策を実施。神社に仏像を置くことは許されなくなった。関山神社だけが残され、宝蔵院は解体された。廃仏毀釈の流れの中で、宝蔵院に祀られていた多くの仏像は、破壊されたり、行方がわからなくなってしまった。
しかし寺の関係者は、本尊であったこの百済仏を、なんとか破壊から救おうとしたのだろう。箱に入れて封印し、絶対秘仏として神社の奥に秘匿したのだ。
そして、箱を開けて中を見ると失明するとか、災いが起こるとの言い伝えを残した。だから昭和32年に文化庁の調査が実施されるまで、仏像が収められた箱の中にはいかなるものが入っているのか、誰も知らなかったのだ。こうして貴重な百済仏は、破壊を免れることができたのである。
撮影のあと、仏像は再び内陣に収められ、扉には厳重に鍵がかけられた。
この秘仏のお姿をインターネットで流すことは、やはり宗教上の理由で、はばかられる。雑誌などに掲載される機会があったら、ぜひともご覧いただきたい。
文・写真/片山虎之介
世界初の蕎麦専門のWebマガジン『蕎麦Web』編集長。蕎麦好きのカメラマンであり、ライター。著書に『真打ち登場! 霧下蕎麦』『正統の蕎麦屋』『不老長寿の ダッタン蕎麦』(小学館)『ダッタン蕎麦百科』(柴田書店)などがある。