文/鈴木拓也
庶民的な中華料理の代表格である「チャーハン」。家庭でも手軽に作れるが、米粒同士がくっつかない「パラパラ」とした状態に仕上げるのが案外難しい。
どうしてもベタベタした感じになってしまうのは、火力が弱いせいなのか、油が少ないせいなのか? まぁ、たいていの人は深く考えない。余った冷たいご飯を、そこそこおいしく再生できれば、それでよいのだから。
そこで終わらせず、パラパラを追究した挙句、チャーハンの作り方だけで1冊の新書『男のチャーハン道』にまとめたのが、料理研究家の土屋敦さんだ。
土屋さんは、中高生の時代からチャーハンを作ってきたものの、ついぞ満足のゆくパラパラを実現できず、「四十代も終わりに近づいたいま」一念発起。料理研究家としてのプライドを賭して、パラパラチャーハンに挑む。鍋、火力、卵、油などあらゆる要素について試行錯誤を重ねる描写は、まさに1つのドキュメンタリー。そして、自分でチャーハンを作る際のヒントが詰まっている。例えばこんな具合だ。
■火力は強ければよいのか?
土屋さんが最初に検討したのは、火力。中華食堂がパラパラチャーハンを作れるのは、火力の強い業務用コンロを使っているからではないだろうか?
そう考えた土屋さんは、自宅の家庭用コンロに中華鍋を据え、火力を最大設定にして400℃以上にまで上げる。
そこで、すかさず溶き卵を流しいれると、あっという間に焦げて固まってしまった。
「ご飯を投入する前に、もう答えは出てしまった。家庭で出せる最高温度の420℃は、チャーハンには高温すぎるということだ。『家庭用コンロでは火力が足りない』というが、そうではないのだ」(本書30pより)
土屋さんは、鍋をカンカンに熱くするのではなくて、具材を入れても急激に温度を下げさせないのがコツであることに気づく。つまり、重要なのは、鍋の蓄熱量。これも、巨大中華鍋からスキレットまでいろいろ試し、具材を入れても230℃くらいの温度を保持できる広東鍋に行きつく。
■卵コーティングは得策か?
次に土屋さんは、溶き卵が米粒を覆うことで、互いにくっつかずパラパラが実現できるのでは、と仮説を立てる。
実際、90年代のチャーハンブーム以降、「卵コーティング」を意識している料理人は多いそう。例えば、『サライ』(2007年3月号)の特集「チャーハン名人になる」に登場したシェフ小林武志氏も、「卵コーティング」派の1人であることを指摘する。
ただ、どうやってコーティングするのがよいか諸説バラバラ。そこで、土屋さんは、最初に溶き卵を中華鍋に入れてからご飯を投入する、あるいは、あらかじめ溶き卵とご飯を混ぜてから炒めるなど、実験を重ねる。
そして、何ページにもわたり、ああでもないこうでもないと考察して導かれたのが、「先に卵」を入れる手法。これが、「もっともチャーハンらしい味になりつつ、パラパラ感も出せるようだ」と、ひとまず結論づけている。
■油コーティングはいけるか?
卵コーティングに続いて土屋さんが検討したのは、油コーティング。調理用の油には、食材と鍋がくっつかないようにするだけでなく、食材同士をくっつかせない役割もある。
当然ながら、油コーティングについても、条件をいろいろ変えて検証することになる。
例えば、油を敷いてご飯だけ200g炒める場合、強火と弱火のどちらがいいか? 結果はどちらもダメ。卵コーティングがないと火力いかんにかかわらず、ご飯だけでは米粒同士はくっついてしまう。ともかく、とりあえず卵はなしで、火にかける時間、油の量、ラードがいいかごま油がいいかなど、設定を変えて試みが続く。
30ページほど費やして得られた結論は、「油コーティングは却下」。代わりに、「実はわれわれが卵コーティングと呼んでいるものは、『油を吸った卵によるコーティング』なのだ」という発見をする。つまり、油を吸った卵がご飯をコーティングすることで、はじめてご飯はパラパラへと近づく。そして、これには大量の油は必要ないとも。
* * *
話はこれで終わらない。油について知見を得たところで、やっと本書の折り返し地点を通過する。
後半からは、鍋のあおり方やネギが存在する意味など、ウンチク好きという男の本能をくすぐる描写が最後まで続く(だから書名は『男のチャーハン道』なのだ)。
で、えんえんと実験と考察を重ねた末に、土屋さんは完璧なパラパラチャーハンの作り方を見出せたのだろうか?
それについては、本書を読んでのお楽しみ。読んだら、きっとチャーハンを作りたくなるはずである。
【今日のおいしい1冊】
『男のチャーハン道』
https://www.nikkeibook.com/item-detail/26330
(土屋敦著、本体850円+税、日本経済新聞出版社)
文/鈴木拓也
老舗翻訳会社役員を退任後、フリーライター兼ボードゲーム制作者となる。趣味は散歩で、関西の神社仏閣を巡り歩いたり、南国の海辺をひたすら散策するなど、方々に出没している。