「本能寺の変」は、江戸時代から芝居、読本でも格好の題材だった
明智光秀が織田信長を討った本能寺の変。江戸時代から、芝居、読本(当時の歴史小説)においても格好の題材だった。
寛政11年(1799)年に初演された『絵本太功記』は、人気読本を芝居に仕立てた時代物だ。太功記の名の通り、大きな筋立ては、太閤秀吉(芝居では真柴久吉)の出世物語なのだが、明らかに主役は光秀(武智光秀)。信長(尾田春長)と光秀の確執から、謀叛(むほん)の決意、本能寺の変、その後の光秀一族の悲劇を、一日一段で見せていく面白い構成だ。光秀の行為は、芝居でも繰り返し逆賊非道などと諫(いさ)められる。しかし、実際に芝居を観れば、誰しも光秀への同情を禁じえない。
「三代相恩(さんだいそうおん)の主君(春長)といえど、悪逆日々増長すれば、武門(ぶもん)の習い天下の為、討ち取ったるはわが器量」という光秀の台詞にも、戯作者たちの思いが伝わってくる。さらに作中の命名からは、武智つまり「武勇と智恵を兼ね備えた武将」という意味も感じられる。
人形浄瑠璃では、光秀の人形に文七(ぶんしち)という悲劇の武将に用いる首を用いる。白塗りで目の際に薄墨を強く引いた表情に、三日天下に終わった武運の拙(つたな)さ、無念の想いが表れている。
当時の人々には、読本などを通じて、本能寺の変や光秀にまつわる様々な逸話がよく知られていたようで、劇中にもうまく取り込まれている。光秀の母親の名は「皐月(さつき)」というが、本能寺の変直前の連歌の会で光秀が天下取りの内意を詠んだとされる「ときは今あめが下しる五月哉」によるものだろう。また、十段目「尼ケ崎の段」で、旅僧に化けた秀吉が風呂に入っているところを光秀が槍で突くという趣向は、京都妙心寺に今も残る光秀の喜捨(きしゃ)で建立(こんりゅう)された明智風呂から想起されたものに違いない。
文/岡田彩佑実
『サライ』で「歌舞伎」、「文楽」、「能・狂言」など伝統芸能を担当。