
ライターI(以下I):『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』(以下『べらぼう』)第23回では、ついに蔦重(演・横浜流星)が「日本橋」出店を意識するようになります。日本橋は五街道の起点であり、江戸の中心地です。
編集者A(以下A):日本橋でおみやげを買うっていう気持ちはわかりますし、呉服商の白木屋彦太郎(演・堀内正美)も言っていましたが、日本橋に店を持つことで、諸国の本屋からの注文も入る。宮城県の登米市は学校や、警察、武家屋敷など江戸から明治の施設がのこっている「みやぎの明治村」のある「文化の街」ですが、当地の博物館には『小野篁歌字盡』が蔵されています。江戸のベストセラーが地方都市まで普及していたことを表わすエピソードです。市のHPには、〈博物館で所有しているのは文政2年に仙台の伊勢屋半右エ門から出版されたもので、寛政11年に江戸で出版されたものと内容も挿絵も似ていますが作者は不明です〉とあります。きっと、江戸から取り寄せているのと同時に、地元の版元が偽板を刊行していたのではないかと思っています。それだけ売れていたんですね。
I:そうした中で、蔦重の日本橋出店が検討されるわけですが、かなり難しいのではないかという流れが描かれました。
A:日本橋というと江戸時代随一の繁華街で知られているわけですが、実は江戸時代以前の歴史についてはほとんどわかっていません。試みに「日本橋 歴史」で検索してほしいのですが、たいがいが「1603年に最初の日本橋が架橋された」からはじまります。日本橋の袂にある「日本橋由来記」の碑には、〈日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ〉で始まる文章がありますが、〈慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ、海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス。人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス〉とつづられています。
I:家康入府以前の江戸は、今では考えられないですが、当時は江戸城間際まで入江、つまり海に面していたようです。つまり日本橋もほぼ海の中。これを徹底的に開拓、開発したのが家康でした。一昨年の大河ドラマ『どうする家康』の終盤でも、家康(演・松本潤)の江戸開発の様子が描かれていましたよね。家康入府以降、大規模な土木工事を敢行して、日比谷入江を埋め立てて、今日の東京の基礎を築きます。
A:はい。『どうする家康』第37回ですね。当欄でもとりあげました。印象的なのは、丸の内から障子堀の痕跡が発掘されたということでしょうか。(https://serai.jp/hobby/1156323)
I:障子堀とは小田原北条氏の山中城(静岡県三島市)などで見られる堀の形式ですよね。わかりやすく「ワッフルの網目のような」と表現されることもあります。
A:家康入府以前の江戸は、小田原北条氏の領地ですから、北条氏の城に見られる「障子堀」があっても不思議はありません。わたしはこのことを聞いて、家康は日比谷入江の埋め立てなどの土木工事を行ない、徹底的に江戸から「小田原北条氏の痕跡を消したんだな」と思いました。『徳川実紀』などには家康入府時の江戸は、あたかも「寒村」だったというふうに記述されていますが、小田原北条の領地としての営みはあったのです。
I:家康が新たに築いた江戸の日本橋という繁華街の大店の商人は、家康入府以降に江戸に入った人々。小田原北条氏の時代から商いをしていましたという商人はいません。家康とともに江戸にやってきた最初期の商人たちは、三河、遠江、駿河、京都、大坂などで家康と関係のあった人がほとんどだったようです。日本橋という地名、橋名からもわかるように、家康は江戸城にも近い日本橋を日本の道の中心と決めました。だから、江戸が政治と経済の中心地である都市として発展し始めると、全国から様々な商人が集まってくるようになり、日本橋に「江戸支店」を設けるようになりました。特に伊勢や近江の商人が多く、近江国出身のふとんの西川は日本橋での創業が1615年、伊勢国松坂出身の小津和紙(創業1653年)や同じく伊勢国松坂出身で三越や三井グループの前身である越後屋(越後屋創業は1673年だがそれ以前に親族が小間物問屋を江戸で商いしていた)、同じく伊勢国出身の鰹節のにんべん(創業1699年)や大国屋(現国分、創業1712年)もすでに店を構えていました。
A:なるほど。
I:今週登場した白木屋彦太郎は、京都の呉服・小間物問屋ですが、日本橋に進出したのは1662年。つまり劇中の白木屋彦太郎は江戸出店100年後の当主ということになります。白木屋は明治以降、日本で最古参のデパートに発展するわけですが、火災に見舞われたのは昭和7年。それ以前に日本橋に住んでいたという方の話では、子供の頃によく白木屋の名水井のお水を飲んでいたそうです。ちなみに、白木屋火災以前の日本橋の交差点には、赤の三越、黒の大国(黒)屋、白の白木屋、緑の柳屋がありました。柳屋は浜松以前から家康にゆかりがあり、家康の江戸入府に同行。家康から日本橋に賜った御朱印地に屋敷を構え、1615年に化粧品の店を開いています。
A:現代の東京も地方出身者が多いですが、江戸の商人も地方からっていう感じだったんですね。白木屋といえば、「商いは 利益を取らず 正直に良きものを売れ 末は繁盛」という家訓で知られています。明治には白木屋デパート、戦後に東急百貨店日本橋店となり、1999年に336年の歴史を閉じます。もう26年も前になるのですが、閉店セールに行った記憶があります。最初で最後の訪問でした。ですから、『べらぼう』に白木屋彦太郎が登場するのは、歴史の流れにいる自分が意識されて感慨深いですね。
I:当時は、日本橋の地盤沈下がいわれたわけですが、跡地には「コレド日本橋」が三井不動産により建てられました。福徳神社が再興されるなど、日本橋界隈は賑わいを取り戻しています。小伝馬町の十思スクエアでは蔦重ギャラリーが展示されています。さて、江戸中期ともなると世界でも有数の人口を擁した江戸の地ですが、安政の大地震(1854年)を起点にしても、維新の際の動乱(1868)、関東大震災(1923)、米軍による空襲(1944~1945)など100年の間に幾度も惨禍に見舞われました。かつては江戸に住んで商いをしていた商人たちの多くが、店は日本橋に残し、住まいを郊外に移転させています。そのため日本橋老舗の店舗の古文書もほとんど残されていないのが現状です。
A:そうした中で残されている貴重な史料がにんべんの「伊勢屋髙津伊兵衛古文書」です。伊勢の親戚の女性たちが江戸にやってきた際の記録も記されていますね。芝居見物などを楽しみ、吉原にも見学に訪れたそうです。単に遊郭というだけでなく、最先端のファッションを見学できるおしゃれスポットでもあったのが吉原だったことがわかる史料です。
I:蔦重の大門前の耕書堂でも錦絵や細見、黄表紙なんかをおみやげに買ったかもしれませんね! さて、大店といってもその歴史は京都ほど古くはないのが、江戸。蔦重の日本橋出店はどのような駆け引きで成立したのでしょうか。

●編集者A:書籍編集者。『べらぼう』をより楽しく視聴するためにドラマの内容から時代背景などまで網羅した『初めての大河ドラマ~べらぼう~蔦重栄華乃夢噺 歴史おもしろBOOK』などを編集。同書には、『娼妃地理記』、「辞闘戦新根(ことばたたかいあたらいいのね)」も掲載。「とんだ茶釜」「大木の切り口太いの根」「鯛の味噌吸」のキャラクターも掲載。
●ライターI:文科系ライター。月刊『サライ』等で執筆。猫が好きで、猫の浮世絵や猫神様のお札などを集めている。江戸時代創業の老舗和菓子屋などを巡り歩く。
構成/『サライ』歴史班 一乗谷かおり
