はじめに-松前廣年とはどのような人物だったのか
松前廣年(まつまえ・ひろとし)は、江戸時代後期に活躍した武士であり、同時に優れた画家としても知られる人物です。蠣崎波響(かきざき・はきょう)として画壇に名を残し、アイヌの首長を描いた『夷酋列像(いしゅうれつぞう)』や、晩年の大作『釈迦涅槃図(しゃかねはんず)』などで高い評価を受けました。藩政に関わる家老としての顔と、文化を担う画人としての顔。その両面をあわせ持つ廣年の生涯をたどります。
そんな松前廣年ですが、実際にはどのような人物だったのでしょう。史実をベースに紐解きます。
2025年NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、吉原に出入りする中で人生が翻弄されていく、心根の優しい人物(演:ひょうろく)として描かれます。

目次
はじめに-松前廣年とはどのような人物だったのか
松前廣年が生きた時代
松前廣年の生涯と主な出来事
まとめ
松前廣年が生きた時代
松前廣年が生まれたのは、明和元年(1764)。江戸幕府のもとで全国が安定を見せる一方、蝦夷地(現在の北海道)ではロシアの南下政策が進行し、北方防備の重要性が高まりつつある時代でした。
文化4年(1807)には松前藩が蝦夷地を幕府に返上し、陸奥国伊達郡梁川(むつこくだてぐんやながわ、現在の福島県伊達市)へと移封。この移封により、松前藩とその家臣たちは大きな転機を迎えることになります。廣年もそのただ中で、藩政と画業の両立に努めました。
松前廣年の生涯と主な出来事
松前廣年は明和元年(1764)に生まれ、文政9年(1826)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
藩主の弟として生まれ、蠣崎家へ
松前廣年は、松前藩第12代藩主・松前資広(まつまえ・すけひろ)の五男として生まれました。兄には父の跡を継ぎ、松前藩主となった松前道廣(まつまえ・みちひろ)がいます。
廣年は、松前藩の家老・蠣崎広武の養子に出されました。

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