画家としての修行と成長

廣年は早くから画才を示し、江戸では南蘋(なんぴん)派の建部綾足(たけべ・あやたり)や宋紫石(そう・しせき)に学びました。

天明3年(1783)、画家・大原呑響(おおはら・どんきょう)が松前に来訪した際に影響を受け、さらに寛政3年(1791)には京に上って呑響の師・円山応挙に入門。こうした多様な画風との出会いが、波響の鋭く洗練された作風を形作っていきます。

『蝦夷紋別首長東武画』(えぞもんべつしゅうちょうとうぶがぞう)
波響20歳の作。シントコ(漆塗りの木製容器)に腰を下ろしたアイヌの男性を描く。
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/

『夷酋列像』と家老としての使命

青年期の代表作とされる『夷酋列像』は、寛政元年(1789)のクナシリ・メナシの戦いに際して、松前藩に協力した12名のアイヌの長を描いたものです。精密な描写と鮮烈な色彩によって広く注目され、完成の翌年、光格天皇の天覧に供されることになりました。

文化4年(1807)、松前藩が陸奥国伊達郡梁川へ移封された際には家老として藩政に尽力。その甲斐あって、文政4年(1821)には蝦夷地が松前氏に返還され、藩政も再建されました。

晩年の創作と遺された作品

領地復帰に向けた働きかけを行う一方で、廣年は画業にも力を注ぎます。梁川での生活は、波響にとって創作活動の充実期でもありました。特に『花鳥人物図(かちょうじんぶつず)』十二幅対(岡部家蔵)は、化政期地方文化の成熟を象徴する作品として知られています。

その後、文政9年(1826)6月22日、63歳で死去。その墓は北海道松前郡松前町の法源寺にあります。

まとめ

松前廣年、通称・蠣崎波響は、松前藩の家老として重責を担う一方で、江戸から京に至る多彩な絵画流派を吸収し、独自の美を築いた画人でした。

アイヌを描いた歴史的な作品から、精緻な花鳥画まで、彼の表現には自然と人を見つめるまなざしが通底しています。政治と芸術の狭間で生きたその姿は、今もなお静かな存在感を放っています。

※表記の年代と出来事には、諸説あります。

文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP:http://kyotomedialine.com FB

引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『日本人名大辞典』(講談社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)

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