はじめに-福島正則とはどんな人物だったのか
福島正則(ふくしま・まさのり)は、賤ヶ岳の戦いで「七本槍」の一人に数えられたり、関ヶ原の戦いで先鋒を務めたりするなどの功績で知られていますが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、小姓時代に豊臣秀吉に才能を認められた猛将。石田三成と対立し、秀吉の没後にいち早く徳川家康についたことで豊臣家分裂のきっかけを作る人物(演:深水元基)として、描かれます。
目次
はじめに-福島正則とはどんな人物だったのか
福島正則が生きた時代
福島正則の足跡と主な出来事
まとめ
福島正則が生きた時代
戦国時代には、主君の身の回りの雑務を処理する役職の小姓(こしょう)が一般化しました。主君の日常的な雑務をこなすことを基本としながらも、戦時には主君の近くにいてその護衛を担当。福島正則は豊臣秀吉に小姓として仕え、そこから武将になっていったのです。
福島正則の足跡と主な出来事
福島正則は生年が永禄4年(1561)で、没年が寛永元年(1624)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
秀吉の家臣としての活躍
正則は永禄4年(1561)に尾張国に生まれ、秀吉に小姓として幼少期から仕えていました。母は秀吉の伯母木下氏にあたり、親戚であったようです。
播磨三木城攻め、因幡鳥取攻め、山崎の戦いなどに参戦し、頭角を現しました。中でも、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いでは一番槍・一番首の戦功を上げ、「七本槍」の一人に数えられ、5000石を与えられます。同じ「七本槍」の一人である加藤清正が3000石であったのを比べると、功績の大きさがわかるでしょう。
その後、小牧・長久手の戦いや雑賀攻めでも活躍し、天正13年(1585)には従五位下(じゅごいのげ)左衛門尉(さえもんのじょう)に叙任、左衛門大夫と称します。天正15年(1587)の秀吉の九州征服に従い、同年に伊予で11万石を領しました。
その後、小田原合戦では伊豆韮山城攻めの先手となり、朝鮮出兵では兵粮輸送などにも関与し、朝鮮の忠清道(韓国中西部)を担当。文禄4年(1595)には清洲城の24万石を領します。出身地が清洲に近かった正則は、寺社の保護政策を積極的に行ないました。
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