はじめに-前田利家とはどんな人物だったのか?
2026年NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』にも登場する、加賀百万石の礎を築いた前田利家(まえだ・としいえ、演:大東駿介)。「槍の又左(またざ)」の異名をとる勇猛な武将である一方、豊臣秀吉(演:池松壮亮)とは家族ぐるみの信頼関係で結ばれ、晩年は「五大老」として豊臣政権の重鎮となりました。
本記事では、前田利家の波乱に満ちた生涯と、その時代背景をわかりやすく解説します。
『豊臣兄弟!』では、血気盛んな武将で派手好きな傾奇者(かぶきもの)として描かれます。

前田利家が生きた時代
前田利家が活躍したのは、戦国時代の後半から安土桃山時代にかけて。天下統一へと突き進む織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康が次々と台頭した、まさに歴史の転換点でした。
尾張の小領主の家に生まれた利家は、信長に仕えて武功を重ね、のちに秀吉の信頼を得て五大老の一角へ。家康との駆け引きの中で病没するまで、常に政権中枢に位置した人物です。
前田利家の足跡と主な出来事
前田利家は、天文6年(1537)もしくは天文7年(1538)に生まれ、慶長4年(1599)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
信長に仕え、「槍の又左」として活躍
前田利家は天文6年(1537)もしくは天文7年(1538)に、尾張荒子城主・前田利春(まえだ・としはる)の四男(次男という説もあり)として誕生。幼名は犬千代。天文20年(1551)に織田信長に小姓として仕え、元服後は孫四郎、さらに又左衛門(またざえもん)と名乗りました。
青年期の利家は血気盛んな武勇の人。長槍の使い手として知られ、「槍の又左」と呼ばれるほどの勇将でした。しかし、仲間との諍いで信長の怒りを買い、しばらくの間は蟄居を命じられたことも。
それでも再び許され、信長の数々の戦に従軍。美濃攻め、桶狭間、姉川、長篠などの戦いで功績を重ねました。

柴田勝家のもとで府中三人衆の一人に
天正3年(1575)、越前平定後には柴田勝家のもとで不破光治・佐々成政(さっさ・なりまさ)と共に「府中三人衆」として施政を担当。勝家の動きを監視する目付のような役割も担っていたとされます。
やがて能登国(現在の石川県)七尾(ななお)城主となり、織田政権下で一国一城の大名格へと昇進。ところが天正10年(1582)に本能寺の変が勃発すると、状況は一変します。

本能寺の変と秀吉への転身
信長の急死後、織田家の後継争いが起き、利家は当初、旧主である柴田勝家に従います(賤ヶ岳の戦い)。しかし、豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)からの誘いに応じて降伏。加賀討伐の先鋒となり、勝家と敵対することになります。
この決断により、利家は能登と加賀の半国を与えられ、金沢城主に。これが後の「加賀百万石」へとつながっていくのです。

秀吉との深い信頼関係と、家族ぐるみの結びつき
前田利家と秀吉は、尾張時代からの同輩という縁もあり、非常に深い信頼関係で結ばれていました。利家の妻・まつと秀吉の正室・寧々は幼なじみ。
また、利家の三女・摩阿姫(まあひめ)は秀吉の側室に、四女・豪姫は幼くして秀吉の養女となり、宇喜多秀家(うきた・ひでいえ)に嫁ぎました。
こうした人間関係は、前田家と豊臣政権を強固に結びつけ、利家が五大老筆頭として政権運営に深く関わる礎となりました。

五大老として豊臣政権を支える
秀吉の晩年、利家は「五大老」の一人に任じられ、幼い秀頼の後見人を務めます慶長元年(1596)には従二位・権大納言となり、秀吉からの信頼は絶大でした。
慶長3年(1598)、秀吉の死後は大坂城に入り、豊臣家と諸大名の仲介役を果たします。台頭する徳川家康との関係も良好で、しばしば互いの屋敷を訪問し、対立の緩和に努めていたようです。
しかし、政権の緊張を完全に抑えきることはできず、慶長4年(1599)3月3日、病に倒れて大坂城で死去。利家の死後、政局は一気に不安定化し、関ヶ原の戦いへと突き進むことになります。
まとめ
「槍の又左」として戦場を駆け抜け、加賀百万石の礎を築いた前田利家。信長・秀吉という天下人に仕えながら、常に義を貫き、調整役として動き続けた姿は、まさに時代を支えた名将といえるでしょう。
家族ぐるみで築いた秀吉との信頼関係、そして晩年の政治手腕は、今なお多くの人に語り継がれています。
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/菅原喜子(京都メディアライン)
肖像画/もぱ(京都メディアライン)
HP: http://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『日本大百科全書』(小学館)
『世界大百科事典』(平凡社)
『国史大辞典』(吉川弘文館)











