はじめに-松井友閑とはどんな人物だったのか
松井友閑(まつい・ゆうかん)は、織田信長の経済官僚として活躍し、寺社との交渉や茶器の収集などを担当したことで知られています。堺の代官も勤めていました。
そんな友閑ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
目次
はじめに-松井友閑とはどんな人物だったのか
松井友閑が生きた時代
松井友閑の足跡と主な出来事
まとめ
松井友閑が生きた時代
戦国時代には、多くの大名が自国の国力を増大させるために商業の活性化に力を注ぎました。各地に城下町が整備され、商人が集まり、経済活動が活性化します。商人の影響力も拡大し、千利休や津田宗及(つだ・そうきゅう)のように商人が大きく政治に関わることもありました。また、豪商が登場してくる時期でもあります。
松井友閑の足跡と主な出来事
松井友閑は生年没年ともに不詳です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
信長による重用から秀吉による罷免まで
友閑は当初、尾張清須の商人で、信長が抜擢して自身の右筆(ゆうひつ)とし、使者として各方面との折衝をしていたと言われています。合戦にはほぼ参加しませんでしたが、信長の経済官僚として重用され、さまざまな業務をこなしたのです。また、信長の名物茶器収集にも尽力しています。
寺社や大名との交渉を担当することが多く、本願寺の和睦交渉、謀反を起こした信貴山(しぎさん)城の松永久秀父子や摂津有岡城の荒木村重の説得、天正2年(1574)の正倉院の名香・蘭奢待(らんじゃたい)切り取りの奉行担当など。茶器の収集も行なっています。翌年、「宮内卿法印」と称しました。
天正8年(1580)には、石山本願寺との勅命講和の際には、信長側の代表として大坂方との交渉に当たり、大坂城を接収するなど、信長の側近として活躍しました。
友閑はまた、信長が堺支配のために置いた堺代官を勤め、堺の豪商との交渉も担っていました。信長は堺の豪商たちの南蛮貿易のノウハウや交易ルートに目をつけており、その財力を手に入れたいと願っていたのです。友閑は堺にとどまる中で、津田宗及といった豪商とのつながりを深めました。また、遊歴のため堺を訪問していた徳川家康を自宅で、もてなしています。
友閑は茶人としても優れていたとされ、知識豊富で立ち居振る舞いも一流だったとか。大名茶湯の発展に寄与し、信長の茶道を勤めたこともあります。
天正10年(1582)の本能寺の変以降は豊臣秀吉に仕えます。引き続き堺の政所を担当して、京都や摂津近辺の寺社関係の支配を担っていたものの、天正14年(1586)に秀吉によって罷免されることに(『多聞院日記』より)。堺の支配は、秀吉の側近である石田三成や大谷吉継らによって引き継がれました。
堺の代官を罷免された友閑のその後の消息は不明です。政治の世界から引退して、文化人としてゆったりと過ごしたのかもしれません。
まとめ
松井友閑が活躍した時代は乱世ではありましたが、経済が活性化し、商人が力をますます強めていた時代であったとも言えます。彼の広範な活躍ぶりは、京畿の寺社などに宛てた判物類が多く残されていることからわかります。しかしながら、本能寺の変の後の動向はわかっていません。
武士だけでなく、商人が活躍した時代でもあったことが、彼の存在から伝わってくるのではないでしょうか?
※表記の年代と出来事には、諸説あります。
文/三鷹れい(京都メディアライン)
HP:https://kyotomedialine.com FB
引用・参考図書/
『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞出版)