はじめに-鳥居強右衛門とはどんな人物だったのか
鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)は、武田軍に拘束されながらも、長篠城内に籠城する味方に援軍がまもなく来るから持ちこたえるよう叫んで鼓舞した人物として有名です。
そんな強右衛門ですが、実際はどのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、読み解いていきましょう。
2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』では、「ろくでなし強右衛門」と呼ばれ、普段はやる気も勇気もない地侍として登場。しかし、武田軍の攻撃で窮地に立たされた長篠城を救うために、岡崎城の徳川家康のもとまで援軍を要請するという重大な任務を受け持つことになる人物(演:岡崎体育)として、描かれます。
目次
はじめに-鳥居強右衛門とはどんな人物だったのか
鳥居強右衛門が生きた時代
鳥居強右衛門の足跡と主な出来事
まとめ
鳥居強右衛門が生きた時代
強右衛門は足軽でした。足軽は戦国時代前半では身分の低い傭兵を意味し、ゲリラ兵として利用されましたが、忠誠心の低さからたびたび暴徒化し、略奪行為などを行なっていたのです。
その後、足軽は常備兵として訓練されるようになり、戦国大名にとって重要な戦力となりました。長篠の戦いで、織田信長は大量の足軽を動員して鉄砲部隊を組織しています。
鳥居強右衛門の足跡と主な出来事
強右衛門の生年については不明ですが、没年は天正3年(1575)です。その生涯を、出来事とともに見ていきましょう。
武田軍の包囲網をかいくぐり、援軍を求める
天正元年(1573)、武田信玄が病死すると、家康は三河の長篠城を攻略し、自分のものとします。長篠城は小さな城でしたが、信濃と東三河を結ぶ交通の要衝にあり、武田・徳川両方にとって重要な拠点でした。
奥平定昌(後の信昌)は、家康の家臣として仕えていたものの、奥三河の地は、次第に武田氏の勢力が強くなっていきました。武田氏が三河に侵攻し始めると、奥平家は武田側に味方するように。この時、定昌は結婚したばかりの妻を人質として送っています。
信玄の死後、奥平定昌は再び家康の家臣となり、天正3年(1575)、家康は長篠城を改修してその城主に、武田の家臣であった定昌を据えます。定昌が徳川側についたことで、武田方の人質となっていた定昌の妻は処刑されてしまいました。その後、武田勝頼が長篠城を包囲したことで、長篠の戦いが勃発します。
勝頼は大軍を率いて攻撃するのに対し、定昌は籠城してなんとか持ちこたえている状態でした。長篠城内では、次第に食糧も枯渇し、いよいよ陥落間近……となった時に、定昌は家康に援軍を要請するためにある足軽を使者として送り出します。それが強右衛門だったのです。
長篠城は周囲を武田軍に包囲され、突破は困難な状況でしたが、強右衛門は深夜に川を通って包囲網を抜け出します。そして、雁峯山(かんぼうざん)で狼煙を上げて、長篠城にいる味方に無事を報告。無事、岡崎までたどり着き、家康に援軍を要請します。長篠城の現状報告と大軍集結の確認後に、強右衛門は長篠へと引き返しました。
【命がけの叫びで味方を鼓舞。次ページに続きます】