はじめに-楠瀬喜多とはどんな人物だったのか
楠瀬喜多(くすのせ・きた)は、日本で最初に婦人参政権を要求した民権運動家です。自由民権運動を活発に行ない、板垣退助とも交流がありました。
「民権ばあさん」と呼ばれていた女性ですが、実際には、どのような人物だったのでしょうか? 史実をベースにしながら、紐解いていきましょう。
NHK連続テレビ小説第108作『らんまん』では、楠瀬喜多をモデルとした楠野喜江(くすの・よしえ、演:島崎和歌子)が、自由民権運動の政治結社「声明社」を支援する女性として登場します。
目次
はじめにー楠瀬喜多とはどんな人物だったのか
楠瀬喜多が生きた時代
楠瀬喜多の足跡と主な出来事
まとめ
楠瀬喜多が生きた時代
楠瀬喜多は、天保7年(1836)に生まれます。喜多が生まれた頃の日本は、江戸後期。彼女が生まれたのは、未曾有の大飢饉の年でした。翌年には、大坂で大塩平八郎の乱が起こり、そのことを契機に幕府は天保の改革に取り組みます。
しかし、その後も民衆の不信感を拭うことはできず、「大塩残党」を名乗る騒動が全国で連鎖反応的に起こりました。喜多が生まれたのは、日本が新しい時代への第一歩を踏み出そうとしていた激動の時期でした。
楠瀬喜多の足跡と主な出来事
楠瀬喜多は天保7年(1836)に生まれ、大正9年(1920)に没しました。その生涯を、出来事とともに紐解いていきましょう。
高知に生まれる
天保7年(1836)、喜多は高知城下弘岡町の車力人夫頭西村屋熊次の長女として誕生します。幼い頃から小山漢学塾に通い、学問を身につけました。
安政元年(1854)には、高知藩の剣道指南役・楠瀬実と結婚します。その後、喜多自身も剣道を身につけました。しかし、明治5年(1872)には夫も子も失います。
【板垣退助らと交友し、「民権ばあさん」と呼ばれるようになる。次ページに続きます】