後鳥羽上皇の隠岐流罪は、歴史的にも残念極まりない事件だった
深い交流で結ばれていた将軍源実朝が甥の公暁に暗殺される事件は、京の後鳥羽上皇にとっても衝撃的な報せだったと思われる。源頼朝亡き後、将軍を継承した頼家、実朝がともに非業の死を遂げたという現実を前に、上皇は何を思ったのだろうか。
不穏な鎌倉の政情を正さんと考えたとしたら、それは「正義」の思いが高じたものであったろう。だが、上皇の「正義」も鎌倉側にとっては「上皇の謀反」という扱いだった。
後鳥羽上皇の父帝は高倉天皇。つまり後白河院の孫にあたり、平家とともに西海に沈んだ安徳天皇は異母兄にあたる。皇位継承に必要な三種の神器のうち、草薙の剣を欠いたまま即位した後鳥羽院は、そのことがコンプレックスであったのか、同時代のどの帝と比較しても、すべての面においてアグレッシブな帝だった。
『鎌倉殿の13人』でも描かれたように蹴鞠の腕前は一級品。弓馬の習いもこなして、武士たちと互角に渡り合う。さばかりか、和歌にも優れた才を発揮して、『新古今和歌集』の編纂に取り組み、鎌倉の若き将軍、実朝との和歌を通じた交流を続けた。もし、承久の乱がなければ、「文武両道の名君」として、後世に伝えられたのかもしれない。
そう考えると、後鳥羽上皇の隠岐流罪は、歴史的にも残念極まりない事件だったことになりはしまいか。
後鳥羽上皇は、41歳から60歳までの19年間、京への帰還を夢見ながら隠岐で過ごした。京から同行した元白拍子の愛妾亀菊も同行し、上皇の世話をしていたという。
上皇は、隠岐でどのように過ごしたのか。当欄スタッフはかつて、後鳥羽院の隠岐時代の取材を行なったことがあるが、島内には、後鳥羽上皇の火葬塚や御陵があり、上皇が歌に詠んだという池が伝承されている。上皇の世話をしたという村上家は、上皇が崩御されたという場所に今も屋敷を構え、取材当時で48代目当主が上皇の島での暮らしぶりを解説してくれたものだ。
さらに、上皇をご祭神とする隠岐神社に近接する「海士町後鳥羽院資料館」には、上皇の宸翰を始め、愛用の品々が展示されている。
【上皇が隠岐で詠んだ和歌に締め付けられる思い。次ページに続きます】